2024年2月3日土曜日

フランス革命の流れ(最終回・統領政府設立まで)

 さて、フランス革命、ついに最終回。

 こっからはひじょ~にややこしいので、これまで以上にニュアンスで行きます。
詳細な説明となると知識的にも文章量的にもキャパオーバーなので、良ければ専門のサイトへどうぞ(責任放棄)。


 国民公会の構成は前回説明した通り、山岳派・ジロンド派・中間層でした。
そして最初に主導権を握ったのはジロンド派です。ただしそれは中間層が彼らについたからであって、単独過半数はどちらも取れていません。
ついでに言うと、ジロンド派はこの頃からジャコバンクラブを脱退していますので、ようやく「ジャコバン派」≒山岳派と呼べるようになります。


 さて、共和国となったフランスの目下の問題といえば、もちろんフランス革命戦争です。
ルイ16世の処刑により諸外国は一斉に警戒を強め、講話どころかイギリス、オランダ、スペイン、イタリアと次々に戦争へ突入します。これが第一回対仏大同盟ですね。

 ヴァルミーの戦いで一度は勢いに乗ったものの、長引く戦争はフランスに様々な問題を引き起こしていました。

 まずは商人の買い占め、物資不足、不換紙幣の信用低下による物価の高騰。
戦争の長期化による兵役満了・兵力不足、士気の低下、そして戦況の悪化。
徴兵や革命に反感を持った地方の反乱に、極めつけは最高位の指揮官デュムーリエ将軍の反乱未遂。

 それらの失態や国王裁判・立法への消極的姿勢から、(立法議会時代から支持を失いつつあった)議会でのジロンド派の立場は悪化し、中間層が山岳派についたことで形成は逆転します。

 ジロンド派も山岳派を攻撃し逮捕や暗殺さえしますが、決定打にはならず。ロベスピエールが促した民衆蜂起により議会は国民衛兵に囲まれ、ジロンド派議員は逮捕されてしまうのでした。
ただし、地方によってはジロンド派が強い地域もあり、分断は続きます。


 主導権を握った山岳派は、内閣はもちろんのこと、強い統制を敷くための「委員会」と呼ばれる組織で幅を利かせます。
行政権を有する「公安委員会」、警察権を有する「保安委員会」が有名です。

 彼らは、少し時系列は前後しますが、民衆の圧力を背景に彼らの求める立法、例えば買い占め禁止令や最高価格の法定、反革命容疑者の取り締まり強化などを行っていきました。

 そしてその中で、国民公会は「恐怖政治」の採択を宣言します。
平時の手続きや理念を逸脱して、「怪しい奴」の捕縛・処罰(処刑)、強権的政策を合法化した訳です。
戦時下という緊迫した状況を立て直すという名目なので、今でいう非常事態宣言のような感覚だったのでしょうか。

 イメージと違ったのですが、これは民衆が議会を包囲して要求したもので、むしろ彼らに求められたものだったようです。最初はね。


 恐怖政治の中、反革命容疑者の杜撰な処刑や食糧徴発が行われます。それはパリに留まらずフランス全土に及び、多くの人がギロチンにかけられていくのでした。

通常よりもかなり簡易な手続きでしたから、恐らくでっち上げや私怨によるものも相当数いたでしょう。
※ギロチンの犠牲になった有名な人物一覧
・マリー・アントワネット(言わずと知れた王妃)
・シャルロット・コルデー(上記の、山岳派を暗殺した女性。『暗殺の天使』という嘘のような異名で有名)
・ブリソー(ジロンド派の指導者)
・オルレアン公フィリップ2世(ルイ16世のいとこ。王権を狙う野心的な人物で、なおかつ三部会を要求した貴族たちの代表格)
・デムーラン(バスティーユ襲撃の引き金となったとされる人物)
・ダントン/エベール(山岳派の穏健派/過激派(後述)の代表格)
・ラヴォアジエ(超有名な質量保存法則の発見者)

 しかし一方で彼らの強権的な政策は少なくとも一定の成果はあったようで、物価高騰や食糧不足は改善し、人々の生活も落ち着きました。

 更に軍備・軍制の整備と、新兵であった義勇兵たちも経験を積んだこと、それから新戦術や才能主義(にならざるを得なかった)人事なども功を奏します。
ナポレオンを筆頭とした名将が活躍し、フランス軍はなんと対仏大同盟を敗走させたのでした。

 ということは、戦時体制である恐怖政治はもはや無用であるとも思えます。
ところがその緩みは、ジャコバン派の瓦解を意味しました。


 実は、ロベスピエールに忠実な人間の数はそう多くありませんでした。
かつての立法議会と同様に、ジャコバン派もまた穏健派・過激派に分かれていたのです。

 恐怖政治の中で行われた安易な処刑、そして敵対者への弾圧と処刑(自業自得な面もありましたが)は中間層はもちろん、ジャコバン派の内部にもかなりの反感を抱かせていました。

 ついでに言えば、戦時体制での経済政策も決して万能ではありません。
例えば最高価格令について言えば、軍需工場の賃金は平時よりも下がっていたそうですし、良品は闇市に流され粗悪品が流通していたとか。

 そんな訳で、ロベスピエールの内外での人気はだんだんと落ちていったようです。
総じて言えば国内が安定したことで、強権的なやり方への不満を感じる余裕ができてしまっていた、ということでしょうか。


 そして極めつけが、反革命容疑者の財産没収と貧困層への分配を試みたこと。
その対象になるかも知れないという(色んな意味でもっともな)恐れを抱いた議員たちは、軍隊を議場に引き込み、彼らを逮捕・処刑したのでした。
テルミドール(熱月)の反動」という世界史上でも一二を争うカッコイイ名前で知られるこの事件により、恐怖政治は終焉。

 以降、大体の制度は8月10日のクーデター以前に戻され、ジャコバン派は以前の敵対者と同じように弾圧・処刑されることとなります。


 一般的にはここまでがフランス革命だそうで。こっからは大まかな流れだけ羅列します。

 それから間もなく「共和国憲法」が制定され、制限選挙による議院の結成と「総裁政府」(内閣)が成立します。
これまでとは違う、権力分立による議院内閣制(=議院の同意の下でなければ内閣が存在できない)なのが特徴です。

 それからも物価高騰などによる民衆の暴動が起きますが、もはや基礎となる国民衛兵も指導者も無く、軍隊により呆気なく鎮圧されました。
以降、民衆がこれまでのような大きな役割を果たすことはなくなります。
結局、最後まで貧農に土地が分けられることはありませんでしたね。

 とは言え総裁政府内でも権力争いによるクーデターが度々起きるなど、まるで安定しませんでした。
やがて「ブリュメール(霧月)18日のクーデター」が勃発し、議会は軍隊に制圧され、政府は解散。三人の統領をトップとする「統領政府」が誕生しました。

 そして何を隠そうその一人が、戦功により絶大な人気を誇り、それ故に議会から疎まれていたナポレオン将軍。
彼は第一統領として権力を集め、独裁そしてナポレオン帝政を樹立するのですが…それはまた別のお話。


〇感想

 いやー、長かったですね。期間にしてたったの5年ほどとは信じられません。
色々はしょった部分や逆に詳細過ぎる部分があったと思いますが、勘弁してください。

 個人的には、調べる中で今の日本の基礎になった理念や制度が次々に出て来てけっこう面白かったです。

 最終的には悲劇的な結末に至ってしまってはいますが、それも一連の情勢がドミノ倒しのように派生した結果であり、「こうすれば防げた」と言い切れない、宿命・運命的なものを感じました。


 本説明ではルイ16世、ラ・ファイエット、ロベスピエールくらいしか人名を言及しませんでしたが、彼ら以外にも重要な役割を果たした人はまだまだたくさんいます。
ただ、彼らの行動や思想を説明し始めると余りにも複雑になるため割愛させて頂きました。

 よくこういった解説で「この人物は××派だから△△層に肯定的で~」といった説明をされますが、少なくとも僕にはそんな簡単なまとめ方は不可能です。
知識不足もそうですが、あんまりザックリ語ってしまうと失礼な気がして。

 興味があれば、誰か一人に着目して調べるのも面白いでしょうね。当時の彼らの信念や野心や恐怖が伺えるかもしれません。


 また、フランス革命を「愚民の暴動」とする説明もよく見かけますが、誤りでした。

 重要な役割を果たしていたのは確かですが、実の所これまで見たように、方向を決めていたのは貴族・ブルジョア・ジャコバン派でした。
中でもブルジョアは最終的に自らの目的(共和制かつ富の維持)、このことからフランス革命はブルジョア革命ともされているらしいです。

 まあ、私刑みたいなヒステリックな事件が多かったのも事実です。
情報も知識も経験も余裕も無く、この大事件を冷静に乗り切れという方が酷なような気もしますが。

 でも、多分ですが、現代人でも似たような行動に走ることは十分あり得るのではないでしょうか?流石に斬首はしないでしょうけどね。


 何はともあれ、今シリーズはこれにておしまいです。長々とお付き合い頂きありがとうございました。
それでは。