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2024年2月3日土曜日

フランス革命の流れ(最終回・統領政府設立まで)

 さて、フランス革命、ついに最終回。

 こっからはひじょ~にややこしいので、これまで以上にニュアンスで行きます。
詳細な説明となると知識的にも文章量的にもキャパオーバーなので、良ければ専門のサイトへどうぞ(責任放棄)。


 国民公会の構成は前回説明した通り、山岳派・ジロンド派・中間層でした。
そして最初に主導権を握ったのはジロンド派です。ただしそれは中間層が彼らについたからであって、単独過半数はどちらも取れていません。
ついでに言うと、ジロンド派はこの頃からジャコバンクラブを脱退していますので、ようやく「ジャコバン派」≒山岳派と呼べるようになります。


 さて、共和国となったフランスの目下の問題といえば、もちろんフランス革命戦争です。
ルイ16世の処刑により諸外国は一斉に警戒を強め、講話どころかイギリス、オランダ、スペイン、イタリアと次々に戦争へ突入します。これが第一回対仏大同盟ですね。

 ヴァルミーの戦いで一度は勢いに乗ったものの、長引く戦争はフランスに様々な問題を引き起こしていました。

 まずは商人の買い占め、物資不足、不換紙幣の信用低下による物価の高騰。
戦争の長期化による兵役満了・兵力不足、士気の低下、そして戦況の悪化。
徴兵や革命に反感を持った地方の反乱に、極めつけは最高位の指揮官デュムーリエ将軍の反乱未遂。

 それらの失態や国王裁判・立法への消極的姿勢から、(立法議会時代から支持を失いつつあった)議会でのジロンド派の立場は悪化し、中間層が山岳派についたことで形成は逆転します。

 ジロンド派も山岳派を攻撃し逮捕や暗殺さえしますが、決定打にはならず。ロベスピエールが促した民衆蜂起により議会は国民衛兵に囲まれ、ジロンド派議員は逮捕されてしまうのでした。
ただし、地方によってはジロンド派が強い地域もあり、分断は続きます。


 主導権を握った山岳派は、内閣はもちろんのこと、強い統制を敷くための「委員会」と呼ばれる組織で幅を利かせます。
行政権を有する「公安委員会」、警察権を有する「保安委員会」が有名です。

 彼らは、少し時系列は前後しますが、民衆の圧力を背景に彼らの求める立法、例えば買い占め禁止令や最高価格の法定、反革命容疑者の取り締まり強化などを行っていきました。

 そしてその中で、国民公会は「恐怖政治」の採択を宣言します。
平時の手続きや理念を逸脱して、「怪しい奴」の捕縛・処罰(処刑)、強権的政策を合法化した訳です。
戦時下という緊迫した状況を立て直すという名目なので、今でいう非常事態宣言のような感覚だったのでしょうか。

 イメージと違ったのですが、これは民衆が議会を包囲して要求したもので、むしろ彼らに求められたものだったようです。最初はね。


 恐怖政治の中、反革命容疑者の杜撰な処刑や食糧徴発が行われます。それはパリに留まらずフランス全土に及び、多くの人がギロチンにかけられていくのでした。

通常よりもかなり簡易な手続きでしたから、恐らくでっち上げや私怨によるものも相当数いたでしょう。
※ギロチンの犠牲になった有名な人物一覧
・マリー・アントワネット(言わずと知れた王妃)
・シャルロット・コルデー(上記の、山岳派を暗殺した女性。『暗殺の天使』という嘘のような異名で有名)
・ブリソー(ジロンド派の指導者)
・オルレアン公フィリップ2世(ルイ16世のいとこ。王権を狙う野心的な人物で、なおかつ三部会を要求した貴族たちの代表格)
・デムーラン(バスティーユ襲撃の引き金となったとされる人物)
・ダントン/エベール(山岳派の穏健派/過激派(後述)の代表格)
・ラヴォアジエ(超有名な質量保存法則の発見者)

 しかし一方で彼らの強権的な政策は少なくとも一定の成果はあったようで、物価高騰や食糧不足は改善し、人々の生活も落ち着きました。

 更に軍備・軍制の整備と、新兵であった義勇兵たちも経験を積んだこと、それから新戦術や才能主義(にならざるを得なかった)人事なども功を奏します。
ナポレオンを筆頭とした名将が活躍し、フランス軍はなんと対仏大同盟を敗走させたのでした。

 ということは、戦時体制である恐怖政治はもはや無用であるとも思えます。
ところがその緩みは、ジャコバン派の瓦解を意味しました。


 実は、ロベスピエールに忠実な人間の数はそう多くありませんでした。
かつての立法議会と同様に、ジャコバン派もまた穏健派・過激派に分かれていたのです。

 恐怖政治の中で行われた安易な処刑、そして敵対者への弾圧と処刑(自業自得な面もありましたが)は中間層はもちろん、ジャコバン派の内部にもかなりの反感を抱かせていました。

 ついでに言えば、戦時体制での経済政策も決して万能ではありません。
例えば最高価格令について言えば、軍需工場の賃金は平時よりも下がっていたそうですし、良品は闇市に流され粗悪品が流通していたとか。

 そんな訳で、ロベスピエールの内外での人気はだんだんと落ちていったようです。
総じて言えば国内が安定したことで、強権的なやり方への不満を感じる余裕ができてしまっていた、ということでしょうか。


 そして極めつけが、反革命容疑者の財産没収と貧困層への分配を試みたこと。
その対象になるかも知れないという(色んな意味でもっともな)恐れを抱いた議員たちは、軍隊を議場に引き込み、彼らを逮捕・処刑したのでした。
テルミドール(熱月)の反動」という世界史上でも一二を争うカッコイイ名前で知られるこの事件により、恐怖政治は終焉。

 以降、大体の制度は8月10日のクーデター以前に戻され、ジャコバン派は以前の敵対者と同じように弾圧・処刑されることとなります。


 一般的にはここまでがフランス革命だそうで。こっからは大まかな流れだけ羅列します。

 それから間もなく「共和国憲法」が制定され、制限選挙による議院の結成の後、2ヶ月ほどして「総裁政府」(内閣)が成立します。
これまでとは違う、権力分立による議院内閣制(=議院の同意の下でなければ内閣が存在できない)なのが特徴です。

 それからも物価高騰などによる民衆の暴動が起きますが、もはや基礎となる国民衛兵も指導者も無く、軍隊により呆気なく鎮圧されました。
以降、民衆がこれまでのような大きな役割を果たすことはなくなります。
結局、最後まで貧農に土地が分けられることはありませんでしたね。

 とは言え総裁政府内でも権力争いによるクーデターが度々起きるなど、まるで安定しませんでした。
やがて「ブリュメール(霧月)18日のクーデター」が勃発し、議会は軍隊に制圧され、政府は解散。三人の統領をトップとする「統領政府」が誕生しました。

 そして何を隠そうその一人が、戦功により絶大な人気を誇り、それ故に議会から疎まれていたナポレオン将軍。
彼は第一統領として権力を集め、独裁そしてナポレオン帝政を樹立するのですが…それはまた別のお話。


〇感想

 いやー、長かったですね。期間にしてたったの5年ほどとは信じられません。
色々はしょった部分や逆に詳細過ぎる部分があったと思いますが、勘弁してください。

 個人的には、調べる中で今の日本の基礎になった理念や制度が次々に出て来てけっこう面白かったです。

 最終的には悲劇的な結末に至ってしまってはいますが、それも一連の情勢がドミノ倒しのように派生した結果であり、「こうすれば防げた」と言い切れない、宿命・運命的なものを感じました。


 本説明ではルイ16世、ラ・ファイエット、ロベスピエールくらいしか人名を言及しませんでしたが、彼ら以外にも重要な役割を果たした人はまだまだたくさんいます。
ただ、彼らの行動や思想を説明し始めると余りにも複雑になるため割愛させて頂きました。

 よくこういった解説で「この人物は××派だから~」といった説明をされますが、少なくとも僕にはそんな簡単なまとめ方は不可能です。
知識不足もそうですが、あんまりザックリ語ってしまうと失礼な気がして。

 興味があれば、誰か一人に着目して調べるのも面白いでしょうね。当時の彼らの信念や野心や恐怖が伺えるかもしれません。


 また、フランス革命を「愚民の暴動」とする説明もよく見かけますが、ちょっとそれはどうかなーと思います。

 重要な役割を果たしていたのは確かですが、実の所これまで見たように、方向を決めていたのは貴族・ブルジョア・ジャコバン派でした。
中でもブルジョアは最終的に自らの目的(共和制かつ富の維持)、このことからフランス革命はブルジョア革命ともされているらしいです。

 まあ、私刑みたいなヒステリックな事件が多かったのも事実ですが。
情報も知識も経験も余裕も無い中ではやむを得ないとも思うものの、混乱というイメージそれ自体は間違ってはいません。

 でも、多分ですが、現代人でもちょっと間違えれば似たような行動に走ることは十分あり得るのではないでしょうか?流石に斬首はしないでしょうけどね。


 何はともあれ、今シリーズはこれにておしまいです。長々とお付き合い頂きありがとうございました。
それでは。

2024年1月20日土曜日

フランス革命の流れ(その3・ルイ16世の処刑まで)

 どうも。フランス革命、第三回です。
いよいよ貴族からブルジョアの手に主導権が移り始めましたね。


 さて、新たに成立した立法議会において、議員の中に強硬な開戦論を主張する人々が現れます。
それがジャコバン・クラブの主導メンバー、後にジロンド派と呼ばれる面々です。(指導者の名からブリソー派とも)

 なぜこんな時期に・・・と思ってしまいますが、何しろ人数が多いですからね。理由も様々だったでしょう。
 例えば、
・王が外国と通じていると睨み(事実ですが)、干渉を排除するため。
・諸外国から革命を守り抜くため。
・戦争を通じて革命をヨーロッパ全土に広げるため。
・戦争によって潤う業界の人間だったため。
・これが最もありそうですが、愛国心を煽り(あわよくば勝利し)支持を集め、同時にフイヤン派を攻撃するため。
あたりでしょうか。

 というのも、フイヤン派は割と戦争に消極的でした。それもそのはず、当時は不作と財政改革の破綻、情勢不安により物価が上がり続けていたからです。
そこへ争乱が起これば、また民衆が行動を起こしかねません。
しかし一方で、もし戦争で成果を出せれば議会への支持を取り戻せるかもしれません。また彼らの中には軍事を担う貴族もいましたから、権力拡大を目論んで賛成した人ももちろんいたでしょう。

 そして国王はというと、もし勝てば国王の権威を取り戻せますし、負ければ革命勢力が弾圧されるだけ。
どちらに転んでも得しかありません。言わずもがな戦争賛成です。

 結果として、戦争に消極的なフイヤン派に属する大臣をジロンド派が「弱腰」と非難し、国王もフイヤン派大臣を罷免してジロンド派に組閣を命じ、
そして市民も外国(&彼らと繋がる貴族達)への恐怖や敵対心からそれを支持し…
と、反目している勢力それぞれの意図の下、戦争ムードが高まっていきます。

ちなみに、山岳派(急進共和派)の代表格、ロベスピエールは以外にも戦争に批判的でした。
革命を安定させるのが先だというのと、
万一勝利できたとしても武勲を立てた将軍が実権を握ってしまう危険があるというのが主な主張です。
後の恐怖政治やナポレオンの事を考えると興味深いですね。


 そんなこんなで、議会はオーストリアへ宣戦布告しました。

 ですが上述の通り、軍事は貴族の領分。多くの貴族が亡命した上、保守派(指揮官)と共和派で内部分裂しているフランス軍は案の定の連敗。
ついでに王や王妃は外国と通じており、当然情報も流れていました。

 戦況悪化の影響で、ジロンド派・フイヤン派の間で何度か政権交代が起こる中、議会は「祖国は危機にあり」宣言を発します。
要するに、フランス全土に義勇兵(志願兵)を募った訳ですね。これを機に、フランス兵の士気は向上していきます。

 ですがその頃、物価高と生活苦、迫り来る敵国への恐怖、政治からの隔絶によって溜まった議会への不満、民衆の意に抗うように拒否権を行使しているルイ16世への怒りなどなどにより、パリ市内は既に暴力革命の寸前とも言える状況でした。

 更に折悪く、外国の将軍がこの上なく威圧的な脅しを(王妃に頼まれて)布告します。
しかもそれがフランスの専制君主制を擁護する内容だったため、ルイ16世は完全に「敵の手先」と認識されてしまいました。

 そこへ救国の使命感に燃える義勇兵が集まる環境が作られた訳です。


 そして間もなく武装蜂起が勃発。
パリ市庁舎は制圧され、「蜂起コミューン」と呼ばれる組織がパリ自治政府に取って代わります。
更にその未明、テュイルリー宮殿が襲撃される8月10日事件が発生しました。

 義勇兵を先頭にした民衆に対し、宮殿を守る国民衛兵は多くが寝返り貴族は退却、踏み止まったスイス傭兵たちは大半が戦死。
その激戦を讃えるライオン記念碑(王家の盾を庇う獅子の像)はかなり有名なので見たことがある方も多いかもしれません。

 それに屈した議会は、王権の停止=共和制の採用や普通選挙による新議会(国民公会)の結成を宣言。国王一家は幽閉される事となったのでした。
ちなみに司令官として転戦していたラ・ファイエットはパリへ進撃して武力鎮圧を試みますが、兵士の抵抗により断念。逆にパリから狙われる立場となり、国外へと亡命します。
彼はこれ以降フランス革命から姿を消しますが、苦境に遭いながらもナポレオン帝政崩壊まで生き抜きました。

 その後、一部廃止だった封建特権が全面廃止になったり、疑心暗鬼になった民衆やコミューンが反革命容疑者を投獄・虐殺したりしました。
またこれら一連の中で、大きな指導力や人気を見せたのが皆さんご存知ロベスピエールです。詳しくは割愛。


 そしてそれから約1月後、かの有名なヴァルミーの戦いが起こります。
実を言うとこれはメインで紹介しようと思っていたのですが、調べてみると正直大した戦いではありませんでした。
それまでは士気も低く裏切りや撤退のあったフランス軍が、正規軍相手に互角の砲撃戦を演じたというもので、手強いと思った(かどうかは知りませんが)プロイセン軍が突撃もせず撤退してしまったので兵数の割に死者はさほどでもありません。

 ただその後、フランス軍は逆にドイツの重要都市を陥落しており、単なるまぐれでもなかったようですね。


 またそれとほぼ同日に、(今より制限は多いものの)普通選挙により国民公会が結成されました。
もちろんフイヤン派(立憲君主派)は一掃され、ジロンド派、山岳派と大多数の中間層(通称平原派)に分かれました。
これまでの流れから、山岳派が大多数じゃないの?と思われるかもしれませんが、実際は極端な思想の候補者は当選しませんでした。
間接選挙であったこと、貧困層は日雇い仕事のために選挙に行かなかったことなどが主原因だったそうです。

 彼らはルイ16世の処刑について長い討議を行い、他国との内通の露呈、民衆の圧力などにより小差で死刑が可決します。

 こうして、フランス最初の立憲君主は断頭台に掛けられたのでした。


 話はこれでおしまいになってもおかしくなさそうな所ですが、戦争はまだ終わっていません。
それどころかいわゆる対仏大同盟との戦いへと拡大を続け、それに伴い革命も更なる展開を迎えるのでした。

 今回は短めですが、話の区切りが良いのでここでいったん締めさせて頂きます。
それでは。


2024年1月13日土曜日

フランス革命の流れ(その2・立法議会結成まで)

 どうも。フランス革命の備忘的記録、第二回です。


 前回のヴェルサイユ行進により、国王ルイ16世一家と国民議会はパリへと連れて来られていました。

 またこの頃から種々の改革が本格的に始まります。ひとつひとつ説明するほど重要でも簡単でもないので省略しますが、
すごーーく大雑把に言うと、
①旧慣習の廃止と理論的な立法(聖職者の公務員化・教会財産の没収、行政区分の策定など)
②国内の安定化(一部税の廃止、国有財産の売却や①の没収財産による財政問題への対処など)
といったところでしょうか。意外とマトモですね(失礼)。
またユダヤ人や有色人種、女性の人権についての議論も活発になり、これから先いくつかの法律が定められます。

 そして、同時に③経済的自由化という政策も進められていました。

良いことのように思えるかもしれませんが、労働者の団結・争議が禁止されるなど、あまり手放しで喜べるものではありません
「経済活動の自由」や「所有権の不可侵」に熱心なのは、当時すでに土地やお金を得ていた層なのです。

 他にも、革新的な政策は、やがて内乱にまで発展する「国内分断」という副作用も引き起こしてしまいます。


 それはさておき、この時期、議会内外で意見や立場によるいくつかのグループが生まれました。
それを象徴するのが、議員以外でも参加可能な政治クラブの存在です。最も有名なのが「ジャコバン・クラブ」ですね。
ちなみにジャコバン・クラブは特定の思想を掲げたものではありませんので、この時期の中心メンバーは後に言うジャコバン派とは異なります。

 議員以外の人はもちろん、議員であってもこういった団体に参加し、討論を行っていたようです。議会の一部ではないのですが、政党の原型のような存在だったみたいですね。

 では折角ですので、この頃の派閥をまとめてみましょう。


 まず大まかな主張として、君主制を維持するか廃止するか。

 前者のうち、従来通りの専制君主制を主張するのが守旧派とか王党派とか言われます。
一方で、憲法制定、旧制度の改革を目指したのが立憲君主派
革命に参加した貴族はたいていがこのグループに分類されると思います。もちろん貴族以外もいたでしょうが。

 なんとなく想像できると思いますが、この頃から反革命に転じる人も増えます。初期に革命を主導した層なのでややこしいですね。
代表的な人物はラ・ファイエット。

※なお、貴族でありながら旧来の身分制度に否定的な人々は自由主義(的)貴族とも呼ばれます。
ちなみに立憲君主制はフランス革命からおよそ100年前、1688年の名誉革命によりイギリスで確立されました。ついでに覚えておくと便利です。

 一方、廃止したいと考える人々は共和派と呼ばれます。
さらにその中でも、現在の地位をそのまま残したいと考える者と、より体制改革を望む者とで、穏健共和派、急進共和派と分かれていました。

 富裕層は身分制による制限や、貴族たちへ奪われていたお金の流れが無くなれば満足。
物価高騰に苦しむ庶民は生活が楽になるまで富の再分配をして欲しい。

というイメージです。かなり大雑把ですが。
貧しい人々は革命の恩恵をあまり(ほとんど?)受けず、貴族と妥協的な議会への失望などから、その分過激な急進共和派になったりしたようです。


 ではこの頃の世論はというと、これまで革命を主導してきた立憲君主派に近いものでした。

 ところがある時、それを一変させる大事件が勃発します。

 革命への危機感を募らせたルイ16世一家が、マリーアントワネット王妃の兄が治めるオーストリアへの亡命を企てます。
これが有名なヴァレンヌ逃亡事件ですね。
もちろん突発的に逃げた訳ではありません。国外の亡命貴族や他国の力を借りて国内を鎮圧しようとしたのです。

 しかし結果はご存知の通り失敗。これが明るみに出ると、当然世論はルイ16世の王位剥奪に傾きました。

 ジャコバン・クラブでも、立憲君主派(主流派)は共和主義者が勢いづいたクラブを脱退し、ラ・ファイエットらと合流、後にフイヤン・クラブと呼ばれる団体を結成します。
(ただし、これはあくまで政治クラブの話ですから議会の構成は変わりません。)

 議会でも、彼らは「国王は逃げたのではなく誘拐されたのだ」というあからさまな嘘で国王を擁護(というか市民を沈静化させようと)しました。


 しかし、もうひとつ大きな出来事が起こります。シャン・ド・マルスの虐殺です。

 これはヴァレンヌ事件の直後、王と立憲君主派の議会を変更するよう請願する5万ものデモ集団に向け、パリの国民衛兵が無警告で発砲、殺傷したという事件です。
デモ隊は(兵隊が現れるまでは)これまでの事件とは異なり非暴力的な行進でしたので、事件は大きく報じられました。
そして最悪な事に、衛兵隊の総司令官は以前述べた通り、立憲君主派の代表格であり、市民にも人気の高かったラ・ファイエットだったのです。

 もっとも威嚇射撃に驚いた民衆がパニックを起こしただけという可能性もあるそうですが、当時の人々にはそんなことを知る由もありません。
重要なのは、王家に加え、これまでの革命を主導してきたメンバーおよびパリ自治政府に対し、民衆が敵対し始めたということです。


 一方、ヴァレンヌ逃亡事件の報はオーストリアにも届いていました。
妹家族(フランス国王一家)の身を案じたオーストリア王は、プロイセン王国とのポーランド分割会議(この辺、プロイセンの歴史の記事に通じますね。懐かしい・・)の際、外交的圧力をかけるべく共同でピルニッツ宣言というものを出しました。

 簡単に言えば「フランス国王を自由にする為に軍事行動を起こす」という内容でしたが、実際は両国ともそんな準備は無く、脅しに過ぎなかったようです。

 しかし、他国の助力や内乱を画策していた亡命貴族はこれに乗じて「早く革命を止めないとお前たちを(他国が)攻め滅ぼすぞ!」と口撃します。
が、それで鎮静化する訳もなく。
むしろ危機感と諸外国への敵対心を煽られ、国内世論は過激さを増していきました。


 それを抑えるためかどうかはともあれ、この時期、ずっと準備されてきた憲法がようやく出来上がります。これが1791年憲法です。 

 内容としては前回記載した人権宣言の具体化ですが、君主制の存続、国王への行政権の付与が定められています。
そして何より、財産によって選挙権を区別する制限選挙が規定されるなど、貧困層を政治から切り離す内容でした。前述のフイヤン・クラブ派の意図が反映されているのが特徴ですね。


 それでも憲法は憲法ですし、内心はどうあれ国王も宣誓したので、国民議会はその役目を終えたことになります。「憲法制定」国民議会ですからね。

 そんなわけで議会は解散。代わりに憲法に規定された立法議会、正式名称「立法国民議会」が選挙によって結成されました。
規定により前議員は立候補できなかった為、ここで議会の構成員は全員変わります。

 主流派はまだ根強い地盤を持っている(もしくは選挙規定の関係で有利な)フイヤン派のメンバーが大半。
ただし、王政に不満を持っているジャコバン・クラブ(現在の主流は穏健共和派)も結構な数で在席しています。
ちなみにこのとき、議場において立憲君主派が右、急進共和派が左端に座ったことから、既存の体制に賛同する人を右翼、否定する人を左翼と呼ぶようになりました。どちらも死語ですけど。

 この後、落ち着いた時期をほんの数ヶ月だけ挟み、革命は更なる急展開を迎えることになるのでした。


 とりあえず、今回はここまでです。
それでは。

2023年7月23日日曜日

フランス革命の流れ(その1・ヴェルサイユ行進まで)

(※以前の記事があまりにも冗長だったため色々修正・省略しました。)

 どうも。

 皆さん、歴史の選択は日本史と世界史どちらでしたか?僕は世界史だったのですが、恥ずかしながらフランス革命の内容はほぼ理解できないままテストをやり過ごしていました。
が、最近少し再勉強してみたので、忘れる前に備忘的に並べ立てていきたいと思います。

 当然ですが内容の正確性は保証できないので、真面目に勉強したい方は教科書などと見比べながらにして下さい。そんなことするくらいなら教科書だけ読んだ方が

 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 まずは予備知識から。

 時代は太陽王ルイ14世の二代後、ルイ16世の治世です。

 当時のフランスにはアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれる身分制度があり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、そしてそれ以外の第三身分と分かれていました。
ただし、それぞれの身分内でも貧富や立場は大きく異なっています。
例えば第一身分なら中央の大司教⇔村の教会の司祭、
第二身分なら王にコネのある宮廷貴族⇔それ以外(特に平民上がりの貴族)、
第三身分なら王室の御用商人⇔一般市民、地方なら地主⇔小作農、
でスタンスが違うのはイメージできるかと思います。

 特に今回活躍する第三身分の人々は、特権を持たない新興のお金持ち(ブルジョワジー)であって、イメージしやすい貧乏な民衆とは違うということに注意してください。

 それはさておき、第一・第二身分には免税や課税の特権が認められており、当然第三身分が国費を負担させられていました。
更に当時のフランス政府の財政は最悪で、アメリカ独立戦争などの戦費に加え、凶作、そして宮廷貴族の奢侈な生活が重なり、国庫が底をつきそうな状態。

 国王ルイ16世は財政建て直しのため、評判の良い在野の経済家を大臣に任命しますが、
もはや第三身分だけでは賄えないからと特権身分への課税を試みたために、王に近い宮廷貴族たちの猛反対に遭い、罷免される…という流れが何度か続きます。
とはいえ、ルイ16世も別に課税に積極的だった訳ではないようです。


 では、いよいよ説明に入ります。

 発端となったのはある改革派大臣が課税案を貴族たちに提案した際、彼らが拒否する口実として「三部会」の開催を主張したことでした。
この三部会というのはその名の通り、各地の選挙区から選ばれた各身分の代表者で議論を行うための議会です。

 これに喜んだのが第三身分。何故なら彼らが政治に干渉できる機会はこれぐらいであり、しかも絶対王政以来170年ほども開催されていなかったからです。
彼らはこの機会を利用して、特権階級も逆らえない法律、つまり憲法の制定を成し遂げようとしたのでした。

 大臣はそれらの貴族たちと争い、王権を利用して追放したりしたのですが、
曲がりなりにも三部会を開こうと主張している彼らを追放したことで民衆が暴動を起こしたりしています。ややこしいですね。
この時の構図を描くとだいたいこんな感じ(だと思います)。

王の権力を利用する貴族と、王から権力を奪いたい貴族がいたイメージです(実際はもっと複雑ですが)。
どちらも改革派の大臣には敵対的なのがややこしい。
平安風なのは気にしないで下さい。

 最終的には混乱と国庫の枯渇という現実を前に、国王も開催を認めました。(王権の譲歩。)
またこの間も大臣は何度か交代しており、最後に着任した人物は民衆の人気が高く、それを武器に三部会で課税改革を進めようと考えていました。

 ところがというか案の定というか、招集された三部会はもめにもめます。ひと月ほど会議が開かれることもないまま膠着し、やがて第三身分の代表者たちは独自に「国民議会」という議会の結成を(一方的に)宣言し、他の身分の代表者たちに合流を要求しました。

 そんなもん誰が聞くねん、と思いきや、第二身分のごく少数、そして第一身分の大半が合流を決定します。
理由はさまざまでしょうが、聖職者代表に関しては前述の通り貧乏祭司なども多く含まれていたことが大きかったようです。

 国王ルイ16世と宮廷貴族はもちろんその存在を認めず、武力で威圧しつつ議場を閉鎖しますが、彼らの決意は固く、一週間ほどで上述の他身分が合流。
国王はやむなく国民議会の成立を認め、残りの代表にも合流を呼び掛けたのでした。

 これで正式に議会となった国民議会は、この後「憲法制定国民議会(立憲議会)」と改称します。


 ただし、それで引き下がった訳ではありません。まず軍隊を動かし、議会を威圧すると同時に中心都市パリににらみを効かせます。
さらに前述の財務大臣を解任。人気の高い彼を下ろしたことで、改革勢力に動揺が広がりました。

 これに対し、「武力で潰される」と思った市民も自衛組織(※ブルジョア)を立ち上げるなどし、武力衝突と暴動が発生し始めます。

その過程で発生したのが、武装のための弾薬を求めた民衆(※非ブルジョア)によるバスティーユ牢獄襲撃事件でした。
これは専制政治の象徴とも言える牢獄で、国王の命令さえあれば誰でも・非公開で投獄できるというなかなかに怪しげな施設でした。ただし、襲撃時に収監されていたのはわずか7人だったとか。

 当初は民衆も代表者を立てて、守備隊もそれを招き入れて対談するなど冷静な交渉だったのですが、やがてそれらは暴動となってしまいます。
本来ならば成功するはずもないように思うのですが、賃金の未払いなどが祟り国王軍は救援に動けないばかりか一部が市民側に寝返り、陥落。

 これにより軍事的にも統治能力を失っていることを露呈したルイ16世は、パリ自治政府、前述の(国王軍が寝返った)自衛組織=国民衛兵、そして彼らの三色旗を正式に承認・受容するなど、専制君主制は完全に崩壊しました。

 財務大臣も復帰し、特権身分への課税などの改革がついに始動。これまでの報復を恐れた貴族たちは国外へ亡命し、今後は反革命勢力として陰に陽に活動していきます。


 また、地方ではこれらのニュースに触発された反乱や、逆に領主による弾圧といった混乱が広がりました。
ただ、これには立憲議会も困ります。彼らは別に国家騒乱を望んでいる訳ではありませんので。
しかし、市民の支持を考えれば国王軍や私兵などを利用した強硬な鎮圧はできません。

 ここで差し当たり貴族たちと第三身分代表との利害は一致し、とりあえず封建特権の一部廃止を宣言することで国を落ち着かせるとともに、かの有名な人権宣言が出されました。起草者はアメリカ独立戦争でワシントンと共に戦った「両大陸の英雄」ラ・ファイエットです。ちなみに、彼は国民衛兵の最高司令官にも任命されています。

 その内容は自由と平等、人民主権、法の下の平等、三権分立、所有権など、今の日本国憲法の基礎をなす概念が目白押しです。ここテスト出るぞー。


 さて、これで治安が戻るかと思いきや、そうも行きません。
国王ルイ16世は、特権の廃止も人権宣言も承認しませんでした。つまり未発効のままです。

 2か月後、食料品の値上がり・宮廷の散財や革命の侮辱(を伝える記事)・革命急進派の運動などによって、パリの女性たちを中心とした集団がヴェルサイユに向けて出発しました。これがヴェルサイユ行進です。
離れた場所で裕福に暮らす国王に、自分たちの生活苦を分かってもらおうとした訳ですね。また、アントワネット王妃などのいわゆる「君側の奸」を排除しようとする人もいたようです。
ここでひとつ豆知識として、宮殿と立憲議会はパリではなくヴェルサイユにありました。両者は20kmと、意外と離れています。5~7時間くらいかかったでしょう。

 宮殿の外を殺気立った集団に取り囲まれ、国王はやむなく彼らの代表と面会。特権廃止と人権宣言を承認しました。

 ところがそれだけでは終わらず、その日の未明、衛兵の目を盗んだ暴徒が宮殿敷地に侵入・近衛兵を殺害しました。戦闘音に気付いた他の民衆もまた雪崩れ込みます。
興奮状態の彼らに取り囲まれたバルコニーの上で、王と王妃は求められるままに「パリ行き」を受け入れざるを得ませんでした。

 ただし、この段階ではどちらも万歳の声で迎えられており、まだ国民の憎悪はそこまででも無かったようです。
アントワネットなどは寝室まで踏み込まれてますが、「実際に見たらそんなに悪人でもないかもなあ」くらいの印象だったのでしょうか?

 これにより、国王は味方のほとんどいないパリに連れて行かれてしまいました。
加えて立憲議会も同様にパリへと移され、市民の監視下に置かれることになります。


 とりあえず、今回はこんなところですね。
それでは。

 

2019年12月22日日曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第十回・ベルリンの戦い)

 お久しぶりです。前回の更新から何か月経ったか、自分でも怖いくらいです。
 実は最近、Cドライブの調子がおかしくてですね。アプリケーションやらピクチャファイルが消滅したり、保存していたドキュメントが文字化けしたりと結構怪しい感じです。
 ウイルスバスターをかいくぐっているのか単なるクラッシュか、という感じですが、ともかくその為にブログ用のメモやら図やらがあちこち壊れまして。
やる気が思いっきりへし折られた&罪悪感でブログのページを開けない、という精神状態になってしまいました。

 そんな訳で、更新が閉鎖レベルまで落ち込んだ事を深くお詫びし、短いながらも謝罪の挨拶とさせて頂きます。


 前回は『バルジの戦い』でしたね。もう昔過ぎて覚えてねーよ、という方。ごもっともです。もしお時間があればご覧ください。
 まずは事前に状況をざっと説明しておきます。1945年3月末、英米軍はヨーロッパをほぼ分断するライン川以西をほぼ完全に制圧していました。しかし対するドイツ軍は、「近づかれたら橋を爆破する」という作戦を徹底し、英米軍の侵入を防ごうとします。
 その為、進撃を続けるにはまたしても上陸作戦のような船による渡河をしなければならない(と思われている)といった具合でした。

 さて、バルジの戦いが失敗に終わっていよいよ窮状極まるドイツ軍でしたが、ここでライン川のダムを爆破するというとっておきの手段に。渡河不可能の大洪水を前に、英米軍は停止を余儀なくされます。
 その隙に、ドイツ軍は東のソ連軍を退けようと最後の反攻作戦に打って出ました。しかし春の泥濘では機甲部隊も役に立たず、あえなく失敗。そうこうするうちにライン川の氾濫も治まり、とうとう英米軍がベルリンへ向けて再び動き出してしまいます。

 まずはモントゴメリー将軍率いる北方担当イギリス軍(と、その指揮下のアメリカ軍一部)。こちらは至って順当に、船を用いた大規模渡河作戦を実行します。この際行われたのが「ヴァーシティー」と「プランダー」という二つの作戦で、大雑把に言うと渡河部隊、援護する空挺部隊の合同作戦です。空挺好きだなこの人。
 マーケット作戦・ガーデン作戦の反省を生かしてか、実に入念な準備を持って実行に移します。爆撃、砲撃を行った後の空挺作戦は抵抗を受けつつも成功し、無事渡河を完了しました。
チャーチル首相、アイゼンハワー将軍、モントゴメリー将軍の三人でランチを食べながらその様を眺めていたというのですから、その余裕ぶりも伺えます。

 一方のブラッドリー将軍率いる南方担当のアメリカ軍ですが、こちらは何と無傷で残されている橋を発見しました。それがルーデンドルフ鉄道橋、別名レマーゲン鉄橋です。
 アメリカ軍の接近を受けてここでも爆破が試みられましたが、物資不足が祟り橋を落とす事が出来ませんでした。しかもそれに出くわしたのがパットン将軍配下の第三軍。例によって果断即決ぶりを見せ、橋を守るドイツ軍を退けて橋を確保します。
 こうして、奇跡とも呼べるラッキーによって、難無く橋頭保を作り上げる事に成功しました。この後、ドイツ軍は執拗に橋を攻撃し、やがて十数名の米兵と共に沈没します。しかしその頃には浮橋も完成し、意味はほとんどありませんでした。


 それら英米軍の渡河によりドイツ軍の戦線は崩壊、取り残された部隊はあちこちで包囲、降伏してしまいました。その中にはドイツの一大工業地帯、心臓部とも称されるルール地方も含まれています。エルベ川西岸まで快進撃は止まらず、1945年4月、とうとうベルリンを目前にします。しかし、実は連合軍の総司令部では一つの取り決めがありました。それは「ベルリンはソ連が落とす」というものです。
なぜかと言えば、やはり戦功としてソ連の占めるところが大きかったからというのが一つの理由です。
何せ、ソ連軍は一度の戦いで100万以上の兵を動員している事も少なくないのですから(因みに、ノルマンディー上陸~パリ解放、ファレーズ・ポケットまでの参加兵力はおよそ200万人だそうです)、多くの犠牲を出した国が一番の栄誉を得るべしというのも理解できます。
もちろん、軍事的な見地からも十分に考えられた末の結論だろうとは思いますが、イギリスは案の定猛反対しました。

 ともあれ、アメリカ軍はベルリンより南、ドイツ南部からオーストリア、ハンガリー方面へと兵力を向けます。
 そして、ソ連軍とアメリカ軍はエルベ川南方、ドイツ東端で邂逅。西部戦線と東部戦線が初めて結びついた瞬間、これがかの有名な「エルベの誓い」です。イギリス軍は北方で進軍を続け、リューベックやハンブルグに到達しますが、こちらでもソ連軍と合流して進軍を停止。この直後、ナチスドイツは降伏しました。

 さて、その決定打となったベルリン侵攻作戦は1945年4月中旬より、前述の通りソ連軍によって開始されました。ヒトラー総統は市民を避難させる事も無く、全てを道連れにしようとしていたとか。内部のゴタゴタ等で当初は大きな損害を被っていたソ連軍でしたが、それでもオーデルおよびナイセ川を渡り、4月25日にはベルリンを完全に包囲。
 その後は完全な掃討戦です。親衛隊や少年兵が建物の屋上や地下に潜み、機銃や狙撃銃、対戦車砲でソ連軍を迎え撃ちます。多くの市民を巻き添えにしながら激しい戦闘が巻き起こりますがソ連軍の歩みは止まらず、郊外から市内中心部、そしてとうとう国会議事堂へと雪崩れ込みました。
 唯一の希望はヴェンク将軍、ブッセ将軍らによる外からの包囲突破でしたが、それも失敗。
傀儡国家サロ共和国を指揮させていたムッソリーニ大統領の死亡、そして寵臣ヒムラーの裏切り、および救援が完全に頓挫したと聞いた後の4月30日、ヒトラー総統は愛人と共に自殺します。

 5月8日、大統領を後任したデーニッツ将軍が西側連合国と、国防軍代表カイテル将軍がソ連との降伏文書に調印し、かくしてナチスドイツは崩壊したという訳です。



 では、『将軍の栄光』ではどうだったでしょうか。と言っても覚え書きやあいまいな記憶をメインにしていますので、かなり大雑把になったり間違ってたりしてそうです・・・ご勘弁ください。
 まず、自分が操作するのはアメリカ軍ですね。マップ左端にシュツットガルト、ケルン、上にはオスナブリュックがありますが、ケルンを除けば全てライン川東岸にある都市(のはず)です。ルール工業地帯はデュッセルドルフなどだそうですが、マップ上には恐らく存在しません。
 史実通り、アメリカ軍が担当するのはベルリン以南、イギリス軍がベルリン以北を担当しています。何故かフランスも北にいますがまあそれは良いでしょう。
 またベルリンについても史実通りソ連軍が『我が軍に任せてもらおう』みたいな事を言いますが、結局自軍で落とす事になりますね。こちらはゲーム的に致し方ないかと。あ、プラハは確かソ連が占領していたと思いますが、これもまた史実通りです。

 さておき、自軍のルートとしては(僕は)主にフランクフルト→ベルリン→ハンブルグやロストック、という順番で進んでいたと思います。縮尺が小さすぎるのは否めませんが、東西戦線の合流点としては意外にもけっこう一致していたのかな?と思います。
ベルリン市街戦はIFストーリーとして考えればアリなんじゃないでしょうか。

参加将軍は・・・確かゲーリング将軍やマンシュタイン将軍がいましたね。どちらもベルリンでの戦いではその場にいなかったはずですが、オールスター感のあるメンツだったと記憶しています。こうなるとロンメル将軍がいないのが逆に違和感。・・・いませんでしたよね?

 それでは。

2019年5月1日水曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(番外編・バルジの戦い)

 お久しぶりです。今回も『将軍の栄光』のステージ元ネタ解説を…と思ったら、何と西部戦線で残っているのはあと一つ、『第三帝国の運命』だけでした。このステージは連合軍総出でベルリンを落とすという、まさに最終決戦という感じのシナリオになっているんですが、実は史実だとベルリン周辺に攻め込んだのはソ連だけなんですよね。しかもベルリン市街戦はゲリラ的な戦いなので、元ネタ解説というほどのものでもないな、と。

 そこで、いっその事、西部戦線末期の大まかな動きを書いてしまおうと思い至りました。で、折角なので映画にもなった「バルジの戦い」も解説したいと思います。言わば番外編ですね。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。

 さて、前回のマーケットガーデン作戦からおよそ3ヶ月。西部戦線はいよいよドイツ本土に達し、ソ連軍もポーランドへと押し寄せ、ドイツはもう占領を待つばかり、といった状態でした。
 しかし、一方で連合軍はマーケットガーデンの失敗もあって侵攻が停滞、ソ連軍も大攻勢が一段落ついたところです。対するドイツは本国が近づいた事で素早い対応が可能になり、まさしく反撃の好機にありました。

 そんな中、総統ヒトラーが強く主張したのがこのバルジの戦い、正式名「ラインの守り作戦」でした。ちなみに、東部戦線は広すぎて一部の反撃に成功したところで趨勢に影響しない、という理由で却下。
このラインの守り作戦の目的は、一言で言えば「フランス侵攻の再現」です。ベルギーにあるアルデンヌの森を通過して、連合軍の補給路を断ってダンケルクで孤立させた、あれです。

この作戦でも、アルデンヌから突入し、電撃的に進軍してアントワープを奪取し退路と補給路を断ち、北部方面軍を孤立させ侵攻を頓挫させて、これを以って英米の戦意を挫き、講和を結ぶという大胆な計画を立てていました。


 事実、森林地帯で装甲部隊が通る事も無いアルデンヌ地方ではほとんど戦闘も無く、担当のアメリカ軍でも休養地、再編成の場と化していますから、あながち的外れな計画とも言えません。
また、連合軍はこれまで無線を傍受してドイツ軍の動きを読んでいたのですが、それに気付いたドイツ軍がこの頃には書面に切り替えていたので、それが出来なくなってしまっていました。おまけにそれを「ドイツ軍はもう組織的抵抗が出来ない」と勘違いしてしまったのです。


 この作戦の最大の障害は何と言っても戦力が足りない事でした。が、傷病兵、志願兵、少年兵、などなど、ドイツ軍はなりふり構わず兵を搔き集めました。工場もフル稼働し、内外が予想したよりも多くの戦力を整える事に成功したのです。
とは言え、フランス侵攻の時と違って制空権を完全に連合軍が握っている事と、兵力の面で圧倒的にドイツが劣っているという事実に変わりはありません。

それに加え、燃料が足りないので連合軍から奪うしかなく、迅速に補給基地を奪取出来なければ敵の増援に捕まり壊滅させられてしまうという危険をはらんだ楽観的な作戦であるというのも否めない点ではあります。

という訳で、ドイツ軍将校も作戦の実行に反対でした。が、それは総統ヒトラーと作戦本部に受け入れられず、とうとう作戦は実行に移される事になりました。

 1944年12月16日、爆撃機を飛ばせない悪天候の中、ドイツ軍はアルデンヌの森を通ってアメリカ軍を急襲します。突然の奇襲、それも電線切断などの妨害もあり、アメリカ軍の各部隊は全体像も分らぬまま必死の防衛を強いられます。その抵抗は予想外に激しく、あっさりと侵入した地点もありましたが、そうでない地点もいくつか存在していました。

 連合軍の対応も早く、最初こそ陽動を疑っていたアメリカ軍でしたが、各国首脳に相談する事無く予備部隊を急行させるなど、ドイツ軍の予想より早い対処が為されました。
指揮系統整理の為に北部のアメリカ軍をいったんモントゴメリー将軍の指揮下に置くという、国に拘らない柔軟さも見せています。


 続々と現れる救援と激戦を続け、ドイツ軍の作戦は遅延を続けます。

 作戦中で最も有名なエピソードが「グライフ作戦」でしょう。アメリカ軍の軍服を着るなどの偽装をした部隊が、アメリカ軍陣地に潜入して看板の向きを変えたり、偽情報を流したりといった妨害工作を行った作戦です。もちろん条約違反ですが、まあ今更ですね。
 これのせいでアイゼンハワー将軍が暗殺を防ぐために軟禁状態にされたり、ブラッドレー将軍が「イリノイ州の州都」という質問に「スプリングフィールド(正解)」と答えたのに兵がシカゴだと勘違いしていた為に勾留されたり、モントゴメリー将軍が監禁されて激怒したりというエピソードが生まれました。

 それともう一つ。バストーニュ周辺の攻防戦です。ここは7本の道路が交わる交通の要衝であり、絶対に落とさなければならない地点でした。圧倒的な兵力差にも関わらず、アメリカ軍は抵抗を続けます。そしてドイツ軍がやっとバストーニュを包囲し、降伏勧告を行った時のマコーリフ将軍(師団長代理)の答えが「NUTS!」という非常に有名なセリフです。意味は「ふざけるな」又は「地獄に落ちろ」という感じだそうです。
宇宙戦艦ヤマトで沖田艦長が降伏勧告に「馬鹿め」と言うのは十中八九これが元ネタでしょう。
バストーニュは結局占領できず、本隊が先に西進するという決定がされました。

ですが、ドイツ軍の進軍はこれまででした。12月下旬には天候が回復し、爆撃機が再びドイツ軍を襲います。また、燃料も枯渇した所に連合軍の本隊が集結。ドイツ軍は次々と撃破され、退却していきます。
この際、前線が部分的に突出した形(バルジ)になったため、この戦いはバルジの戦いと呼ばれるようになりました。
結局ドイツ軍の到達地点は最大でも半分ほどでしたが、それも全て押し戻され、ドイツ軍最後の反撃は失敗に終わりました。


 マーケット・ガーデン作戦とは「時間が勝負の奇襲作戦」という意味で共通点があり、双方ともにウォーゲームの舞台によく使われます。そういえばどっちも映画にもなってますね。
しかし、なぜか『将軍の栄光』ではシナリオに採用されていません。なぜでしょうか・・・。


 実は平成のうちに更新したかったのですが、ギリ間に合いませんでした。
それでは、令和になっても「暇じゃないけど暇つぶし」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

2019年3月13日水曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第九回・マーケット・ガーデン作戦)

 今回は「マーケット・ガーデン作戦」という作戦の解説です。「遥かなる橋」で映画化された作戦ですね。有名な映画なので聞いたことのある人も多いかと思われます。

 まずは状況から。
オーバーロード作戦とドラグーン作戦以降、連合軍は快進撃を続けフランスのほぼ全域を解放。1944年9月の時点で、戦線は北部がベルギー・オランダ間、中部がフランス・ドイツ間、そして南部がフランス・イタリア間に到達していました。

 しかし、連合軍を悩ませていたのが補給の問題です。
各地の港はまだドイツ軍が立てこもったり、あるいは破壊したりしていた為、連合軍は計画通りに補給港を得ることができませんでした。それで未だにオーバーロード作戦の際に用いた人工港や占領したシェルブール港に頼りきり。しかも上陸作戦の時に爆撃で鉄道を破壊してますから、前線にはトラックで運搬するといった始末でした。
そんな迂遠な方法では広大な戦線をさらに広げるのは難しく、攻勢は停滞してしまいます。

 そんな中で、北部方面を担当していた英軍のモントゴメリー将軍が強く主張したのが、空挺部隊が一斉に奇襲降下して進路を確保、すかさず陸上部隊が進撃し、ドイツ軍の防衛線を一気に突破するというものでした。
連合軍の基本方針は東部も含めて四方からドイツを圧迫するというものでしたが、これは一考に値するものでした。ベルギーのアントワープは補給港としては申し分ないのですが、川の対岸(オランダ)に陣取るドイツ軍が邪魔だったのです。その為、この地域の解放は連合国全体にとっても急務でした。また、ノルマンディー上陸作戦以降役割の無かった空挺部隊の活用にも繋がります。
が、連合軍司令部はこの計画を却下します。理由は二つ。まず、オランダ周辺は狭く、機動的な作戦に向かないこと。それから、モントゴメリー将軍に迅速な作戦遂行の経験が乏しいことがあったとされます。

 しかし、9月8日、とある事件が発生します。世界初の超音速弾道ミサイル『V2ロケット』によるロンドン攻撃が始まったのです。
何だか強そうに思えますが、実際は爆撃機に比べて不発は多い、威力は低い、射程は短い、命中精度は非常に低い、そのくせ発射コストは高いという代物でした。
しかし、その速度ゆえに当時の技術では迎撃はおろか避難すら困難で、「いつ自分の上に落ちてきてもおかしくない」という恐怖は、ロンドン市民や連合軍の将校に大きな精神的プレッシャーを与えました。
 そんなV2ロケットが発射されているのが当のオランダだったのです。そんな訳で最高司令部はオランダの奪還を決断。「マーケット・ガーデン作戦」が実行される運びとなったのです。
実際はもっと河川だらけ

 さてこの「マーケット・ガーデン」という作戦名、実は空の「マーケット」と陸の「ガーデン」という2つの作戦を合わせた呼称なんです。
まず「マーケット」作戦は3個師団を3地点(アイントフォーヘン・ナイメーヘン・アーネム)に降下させ、周辺の5つの川にかかっている橋を占領するという計画です。占領に失敗して橋を落とされでもしたら、大きな川だと侵攻自体が不可能になってしまいます。何が何でも成功しなければならない作戦でした。
そして同時に開始される「ガーデン作戦」は至って単純で、占領されている(はず)の橋を渡って機甲師団などが進軍、各地点の空挺部隊に合流して救出・回収するというものです。
オレンジが空挺地点。

これだけと言えばこれだけ。ですが、この作戦には様々な問題が潜んでいました。

  • 空挺部隊の負担が大きい
「ノルマンディー上陸作戦」を見れば分かる通り、空挺部隊というのは対空砲火などで簡単に降下地点から離れてしまいます。さらに戦車・重火器などを持たずに降りるため、味方から切り離された状態の、ろくな装備も持たない歩兵部隊と考えればその危うさの程も分かる気がします。
今回の作戦では、途中の橋を占領できなければそれより向こうに降下した部隊は孤立してしまいます。しかもこの作戦では「拠点防衛」という任務を与えられていますから、補給もなしに最大4日間橋を保持しなければなりません。(付け加えるなら、これは作戦が計画通りに進んだ、いわば理想的な状態での話です。)まあ一応重火器や車輌も投下する予定でしたが、果たして空挺部隊が本当に持ちこたえられるのか不安の大きい計画でした。

  • 準備不足
この作戦は急ピッチで進められたせいか、様々な準備が不足していました。何しろ1年以上時間をかけたノルマンディー上陸作戦にひきかえ、こちらは決行がV2ロケットの発射からわずか9日後の17日ですからね。
まずは空挺作戦に無くてはならないグライダー。これは必要な数の半分しか用意できませんでした。また実行後に発覚したことですが、無線機にも準備不足、確認不足があり、部隊間や航空要請など多くの通信が不能になってしまいます。
さらに、上で言ったような、橋の奪取に失敗して空挺部隊が対岸に取り残されるという最悪の事態をカバーする計画も立てられないままでした。

  • 楽観的な想定
もちろん、これらの欠点は歴戦のモントゴメリー将軍なら百も承知だったでしょう。それでも作戦が実行されたのは、ドイツ軍が崩壊寸前という前提によるものでした。実際、ファレーズ包囲戦以降ドイツ軍は連戦連敗でろくな装甲戦力も持っていないと分かっており、この少々無茶な作戦でも実行可能とされたようです。
 が、この前提は全くの誤りでした。この時、偶然にもドイツ軍は戦力を立て直していたのです。
孤立していた兵を救出し、敗残兵を集め、新規に部隊も加えて再編成を行っていたのです。さらに悪いことに、2個の装甲師団(武装親衛隊)がここで休養・修理を行っています。大きく弱体化しているとはいえかなりの戦力を保持していました。
実は、レジスタンスや偵察機の報告があったらしく、作戦幹部はこれに気づいていた可能性があります。
しかし、既に作戦が実行目前に迫っていたため無視されてしまったとか。見ない振りをしても解決にはならないのですが、組織ではよくある事かもしれません。

また防衛ラインとして前線を守っていたのはシュトゥデント将軍でしたが、彼はドイツ軍降下猟兵の創設者であり、ドイツ軍による最後の大規模空挺作戦「メルクール作戦」を指揮した人物でした。空挺作戦に対応するにはこの上ない適任者がいたという訳です。


 というような問題や不運(いずれも回避可能なものでしたが)を抱えながらも、1944年9月17日、作戦は実行に移されました。
最初の降下はおおむね計画通りに進み、ノルマンディーのように広範囲に散らばる事もなく、いくつかの橋は難なく占領できました。ドイツ軍は突然降って湧いた大量の空挺部隊に大きく混乱し、モーデル将軍などは自分を拐いに来たと勘違いした程でした。
しかし、SS師団や防衛ライン、兵力を増強した軍によって3地点全てが妨害を受けてもいました。アーネムでは何とか橋を占領したものの増援を待つために進軍が遅れ、アイントホーフェンでは撃退され、ナイメーヘンに至っては進撃を開始することさえできません。当然アーネムの部隊は孤立した状態になってしまいました。
さらに前述しましたが無線の不調によって部隊間の連絡がつかず、情報を確認しようとしたアーネムの師団長(アーカート将軍)が襲撃に遭い行方不明に。
まだあります。墜落した飛行機から作戦の計画書が流出し、奇襲効果はわずか1日目にして損なわれてしまったのです。

 というように、上述の不安はもれなく実現してしまった訳ですね。その後の経緯を大まかに話しておきましょう。
陸上部隊の方は道を塞がれたり、解放を喜ぶ民衆に邪魔をされたり(この光景はパリ解放等でも見られます。気持ちは分かりますが)し、進軍に後れを見せながらもアイントホーフェンで合流を果たします。しかし既に橋は爆破されており、工兵が架設するまで更なる足止めを食らいました。その間、アーネムで橋を占領していた部隊は師団内で孤立したままドイツ軍の猛攻でじりじりと後退していきます。
ナイメーヘンでは決死の渡河が行われ、橋に陣取るドイツ軍を挟み撃ち。見事占領に成功します。が、機甲師団が単独で進軍する事を拒んでいる間に、アーネムの部隊はついに降伏してしまいました。
その後は連合軍の優勢ではありますが、ドイツ軍はアーネムまでの補給路を執拗に攻撃し始めます。そのためアーネムへの進軍はできず、とうとうこの作戦の撤回が決定されました。
 その後アーネム対岸の空挺師団は渡河し脱出。派遣された増援によりドイツ軍は一掃されました。オランダの中に回廊を確保した連合軍でしたが、もはやその価値はほとんど無くなっていました。

結果としては、一般的には連合軍の作戦失敗とされます。なにしろ膨大な物資を割いたにも関わらず、ドイツに打撃を与える事が出来なかったわけですから。このせいでアントワープ解放も遅れ、全体の侵攻も滞るなどの悪影響が出ました。
しかし、モントゴメリー将軍は「9割方成功」と言い、一方のオランダ王子は「オランダにはもう一度モントゴメリーの言うような『大成功』を実現させる余裕はない」と語ったとか語ってないとか。
余談ですがアーネムの橋は、そこを守っていた部隊長のフロスト中佐に因んで「ジョン・フロスト橋」と改名されているそうです。

 それにしても、まるで作戦通りに行かない可能性を全く考慮していなかったような、非常に強引な印象を受けます。

ご存知の方も多いと思いますが、モントゴメリー将軍といえば北アフリカ戦線を勝利に導いた名将であり、しかもその戦略は(再三にわたる首相の要請を拒否し続け)戦力を蓄えるという堅実なものです。いくらV2ロケットという脅威があったとはいえ、その堅忍不抜なイメージとはそぐわないように感じます。

なぜここまで性急に進めてしまったのか?については、本人以外に知る由はありません。
よく聞くのはモントゴメリー将軍の個人的な名誉欲やパットン将軍への競争心という理由です。
モントゴメリー将軍は自らを連合陸軍総司令にするよう要求し、首相に要請してアイゼンハワー将軍より上の元帥の地位を得るなど、かなり固執していたようです。
またパットン将軍は、かつて「ハスキー作戦」で主役を担っていた英軍を出し抜き独断で進軍し、結果大戦果を挙げたことでモントゴメリー将軍に敵視されていた、と言われています。とは言っても、地位が全く違うんですが。
次にイギリスの都合。戦後処理でより有利な条件を引き出すため、あるいは消耗が激しく長期戦を嫌ったイギリス本国が、早く戦争を終わらせようと軍をせっついたという話もありました。
どういう理由にしても、失敗は思惑通りではなかったでしょうが。


 それでは『将軍の栄光』について。・・・なのですが、ステージ開始時にはベネルクスがドイツ所属になっています。そもそもアントワープ周辺までしかマップがありません。
追記:これは「マーケット・ガーデン作戦」後に起こったアントワープ対岸をめぐる戦闘「スヘルデの戦い」を再現している可能性があります。ちなみに本作戦の失敗が響き、アントワープを完全に確保したのは11月。

空挺部隊を使うような場所もありません。その代わり、なぜか沖にモントゴメリー将軍含めいくつかの陸上部隊がたむろしてます。何してんのそこで。
まあ、ターン制限が厳しいのはリアルかな?と思ったり。クリアするには全速力で進まなければいけない辺りは何だか教訓めいた意図を感じます。あと登場将軍は大体史実通りです。
後は・・・そう、ゲーム内でのエアポーンでは歩兵しか降下できなくて不便、とか思ってましたが、実際兵器なんて持ち運べないからしょうがないんですよね。史実の作戦を見てるとあんなに気軽にポンポンできるもんじゃないみたいですから。目標地点に違わず降下できる時点で相当有能だなあ、と今更ながら思います。
いつもながら書ける事が少なすぎる・・・・思いついたらまた追記します。

それでは。

2018年11月28日水曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第八回・ドラグーン作戦)

今日も元気に月イチ更新。
というわけで、ドラグーン作戦の解説です。(西部戦線・連合側『ドラグーン作戦』)
いかにも勇壮なカッコいい名前ですが、実際は大した戦いも無い作戦なんですね。知名度が低いのも頷けます。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 さて、まずはいつものように背景解説から。
この作戦は南フランスへの上陸を目標とするもので、前回のノルマンディー上陸作戦に始まった「オーバーロード作戦」を支援する目的で計画されていたものでした。
この作戦に割く余裕が無いという理由やチャーチルの反対から一旦は延期されたものの、ノルマンディー上陸作戦でシェルブールなど港の確保に手間取ったことを受け再検討された、とあります。

とは言え、実際に実行されたのは8月、ファレーズ包囲戦の直前で、既にドイツ軍の劣勢が明らかになった後でした。

戦力をかき集めた北フランスでさえそんな状況でしたから、南フランスにいるドイツ軍は言うまでもありません。
さらに内陸部ではフランス人レジスタンスが活動し、ノルマンディー同様に通信網や道路を破壊しています。
そんな訳で、ドイツ軍は大した抵抗もできず、また後述するように早々に撤退が決定したため、一方的な追撃戦に終始しました。


 実際の動きを大まかに追っていきましょう。

1944年8月15日、アメリカ軍・自由フランス軍をメインとする連合軍はトゥーロン、ニース間の地域に上陸します。
イタリア戦線からも兵が引き抜かれたとか。
前回お話しましたが、ドイツ軍は8月16日に退却命令を出していました。
南部でもその方針は同じで、南仏のドイツ軍はトゥーロンといった一部を残し、北部フランスを経由してドイツ本国へと撤退しようとしていました。
退路を断とうとする連合軍と、時には足止めの部隊を残して北進するドイツ軍。
その戦闘は幾度にも渡ったものの、初めに書いたように大した戦いも少なく、ドイツ軍は損害を受けつつも撤退を完了。
連合軍はディジョンと呼ばれる都市でパットン将軍の第3軍と合流し、9月11日、フランス南北の連合軍が連絡を果たすことになりました。

このマップ、前回のノルマンディー(後編)にも載せておきました。

ドイツ軍が駐屯していたトゥーロンとマルセイユも8月28日に解放され、南フランスから枢軸勢力を一掃することに成功し、この作戦は達成されました。


それはさておき,この作戦に反対していたチャーチルは、南フランスよりもバルカン半島を攻めるべきだと主張していました。石油を押さえるという軍事的な目的もあったようですが、ソ連の介入を防ぐという思惑もあったと言われます。
一方でルーズベルトはソ連に好意的だったとよく言われており、この辺りに政治的な駆け引きがあったりしたんでしょうか。
結局バルカン半島が軒並みソ連圏に入ったことを考えると、意外と影響の大きい作戦だったのかもしれません。


  さて『将軍の栄光』ではどうだったかというと、まず参加勢力は米仏、空軍として英連邦なのでこれは概ね史実通りです。上陸地点もトゥーロン、ニース間なのでこちらもドンピシャ。
フランス軍が内陸にいるのはやや解せませんが、マップのすぐ西はスペイン、東はイタリアに挟まれているため、海岸線が短すぎて地中海に配置できなかったのではないでしょうか。まあレジスタンスの代わりと考えれば悪くないかもしれません。

それよりも気になるのがスペイン軍です。
史実のスペインはフランコによる独裁政治が敷かれており、色々な面でナチスに協力する反面、いくら要請されても参戦は拒み続けた国でした。
しかし、このシナリオ内ではガンガン攻めてきます。フランコ自ら装甲歩兵を率いて。
何でまた…と思わないでもないですが、軍団モードでもスペインは枢軸に設定されてますし、この辺でスペイン軍も出しておきたかったのでしょうか。

あとは、目標町もマルセイユ、トゥーロン、ニースと、割と史実通りです。北端はディジョンではない・・・どころかフランスですらないミラノとジュネーヴですが、まあ致し方ないでしょう。ディジョンまで入れるとマップが2倍くらい縦に伸びてしまいますからね。

こんなところでしょうか。
記事も短いですがWikipediaの項目も大変短く、英語版のWikipediaも参考にしなければなりませんでした(よっていつもよりさらに信憑性が・・・)。知名度の低い作戦は大変です。
それでは。

2018年10月19日金曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説 後編(第七回・ノルマンディー上陸作戦)

今回の重要な地名です。
どうも。
今回は前回に引き続き、「ノルマンディー上陸作戦」の元ネタ解説です。
めちゃくちゃ更新遅くなってすみません。「てめえ何のために前後編分けたんだこのウスノロが!」と言われると返す言葉もありません。すみません。


それはそうと。
前回は作戦の前段階というか、連合・ドイツ双方の状況をざっとではありますが説明したところで終わっていましたね。

 では、いよいよ作戦実行・・・の前に、予定ではどうだったかを非常に簡単ながらご説明しておきます。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。

シェルブールが位置する半島の名前はコタンタン半島と言います。(書き忘れ
連合軍は上陸地点を5つに分け、西部の「ユタ」・「オマハ」ビーチをアメリカ軍が、東部の「ゴールド」「ジュノー」「ソード」ビーチをイギリス軍(とカナダ軍)が担当します。
さらに上陸直後の動きですが、
アメリカ軍はコタンタン半島の先端にあるシェルブールを本土から分断・孤立させ、その港を奪取します。大きな港であるシェルブールは物資や人員を送るために活用できるため、できるだけ早い占領が求められました。
その後、フランス西岸を南下しながら港湾施設を占領します。

同様にイギリス軍は交通の要所カーンを占領し、アメリカ軍の側面を守るとともに揚陸や空軍施設の整備を行い、パリへの足掛かりを固めます。

こうして補給港と軍備を万全にしてから、アメリカ軍・イギリス軍ともにパリ方面のフランス東部へと進軍する予定でした。


 それじゃあ実際はどうだったか書いていきましょう。といっても、あんまり長く書いても読みづらいですし、下手するとスマホ数ページ分になりますし、何よりWikipediaを丸コピペしても大差ないような内容になりかねないので、こちらもあまり個々の戦闘には触れず大きな流れだけを書いていきたいと思います。
幸い有名な戦いですので調べようとすればいくらでも出てきますから詳しく知りたい方はそちらで(人任せ)。


 さて、悪天候のわずかな晴れ間、6月6日の未明から連合軍の作戦は開始します。
上陸部隊に先立ち、防御機能の低下を狙って艦艇からの砲撃や空爆、敵後方への空挺が行われました。
しかし、経験不足や対空砲火などにより思いのほか空挺部隊が広範囲に散らばってしまい、海やドイツ軍が作り出した沼で溺死してしまうものも多かったとか。
それでも午前6時頃から一斉に、しかも怒涛の如く押し寄せた連合軍の上陸部隊に対し、ドイツ側は5つの地点全てで上陸を許してしまいました。

その理由が、ドイツ側の防御態勢の混乱にあります。
まず、前回でも少し触れましたが、ドイツは悪天候がしばらく続くと考えていました。そのためロンメル将軍など幹部は休暇を取っていたり、そうでない上級指揮官も兵棋演習で前線を離れていたりと、完全に油断していたようです。
また、上記の空挺部隊も期せずしてこの混乱を助長したようで、広範囲にわたって降下した彼らからはその目標や兵力を特定することができなかったとされています。

加えて、ドイツ軍は元々「フォーティチュード作戦」(前回参照)によってカレー地方が目標だと考えていましたから、これが本格的な侵攻作戦かどうかを判断できず、さらには上陸が始まってからすらもこれが陽動作戦ではないかと考え、カレー地方から兵力を動かせないでいました。
おまけにこれらの混乱を事前の爆撃やレジスタンスによる連絡網の破壊が助長し、ドイツ軍から正確な判断を奪っていたのです。


という訳で、ドイツ側は予備戦力に頼ることなく、各海岸の拠点が各自で戦うしかないような状況だったようですね。
以上のような理由から、連合軍の被害は(予想よりは)軽微で済みました。

ここまでで、少し詳しい人であれば「あれ?」と思うかもしれません。
この上陸作戦で最も有名な「オマハ・ビーチ」は、死傷率が50%と非常に大きな被害を出したからです。
ここは高潮で水陸両用戦車や上陸舟艇が沈没したり、目標地点とは違う場所に上陸してしまったりした上に、いざ対面したドイツの防衛部隊はほとんど爆撃・砲撃の被害を受けていなかったのです。
さらに不運なことに、上陸のつい数日前に配置替えが行われており、予想よりもはるかに精強な部隊が防衛していました。
それら想定外の出来事によりアメリカ軍は多くの損害を出し、一時はオマハ・ビーチの放棄も考えられたほどだったといいますが、防御をかいくぐった部隊が内陸から陣地を掃討し、何とか上陸を達成しました。


 とまあ例外はあったものの被害を抑えながら上陸を成し遂げた連合軍でしたが、一方で制圧地域は全く作戦通りになっていませんでした。
例えば上述したようにカーンは上陸当日に占領している予定となっていたのですが、(夕方になってようやく)反撃を開始したドイツ装甲師団によって妨げられました。

ちなみにこの師団、本来なら上陸が始まったら陣地を確保される前に反撃する役割だったはずなんですが、実際にカーンへ向かったのは午後になってからです。
ではシェルブール・カーンを占領したのはいつかというと、シェルブールは6月末。カーンはなんと7月下旬までかかっています。


 それでは、いかにして連合軍はここから侵攻を進めていったか。
便宜上、西部のアメリカ軍・東部のイギリス軍に分けて説明していきます。

 まずはイギリス軍から。
ドイツ軍はベルリンに近いカーンをより重要視しており、主力をカーン方面に置いた他、ヨーロッパ各地から装甲師団を集め、必死の防衛を続けていました(カレーを除く)。

ドイツの装甲師団は機動的な反撃を行い、一つの丘を取ったり取られたりという激しい攻防戦が起こりました。
最も有名な戦車乗りの一人、ヴィットマン中尉率いる大隊が30輌以上の戦車を破壊した「ヴィレール・ボカージュの戦い」が起こったのもここを巡る争いの最中です。
これ以降、イギリス軍は積極的な行動を避けるようになり、その後の侵攻を遅らせる原因になったとか。

 しかし、ドイツ軍も決して楽な戦いではありませんでした。
まず爆撃とレジスタンスの活動で道路・鉄道網が破壊され、輸送が困難に。
連合軍の爆撃機に狙われるため、援軍は夜に紛れて自走するしかありません。
さらにようやく着いても補給が損害を受け、万全の状態で戦うことができません。
そのため一気に戦力を集めることはできなかったため、現状維持がやっとだったようです。
例えばノルマンディー内陸には装甲師団2師団が控えていましたが、カーンに到着したのは上陸してから1,2日経ってからという有様です。まあ命令が出るのも遅かったですが。

7月上旬、イギリス軍の攻撃により比較的脆弱な部分から防衛線が崩壊、ドイツ軍はカーン北側から退却し、ようやく事態が少し進展しました。


 ではアメリカ軍はというと、こちらも攻勢は停滞していました。
ユタ・オマハのアメリカ軍は、その間のドイツ軍を追い払い連結を済ませた後、シェルブール攻略へと向かったのですが、守備が固く失敗します。戦いが長引くことが予想されたため、コタンタン半島を先に横断し、シェルブールを完全に孤立させてから攻めることとしました。
これは成功。要塞化されたシェルブール周辺拠点は粘り強い抵抗を見せましたが、側面・正面からの攻撃と艦砲射撃を受け、ようやく降伏しました。
ただしその前に施設を破壊していたため、この港の利用はしばらく制限されてしまいます。


シェルブールを落としたことで、アメリカ軍は本格的に南のサン・ローという町の方へと進軍します。実はここも上陸当日には制圧する予定でした。
しかし、こちらの攻略も上手くはいきません。理由はこの地方の「ボカージュ」という地形にあります。
ボカージュとは・・・まあ生垣ですね。といっても畦畔林と訳すように背が高く、視線や射撃、戦車の通行を妨げるほど頑丈だそうです。
それが道や畑に沿って区切るように植えられているため両軍ともに戦車を活用することができず、アメリカ軍はボカージュのうちに潜む何重ものドイツ軍の拠点を一つずつ白兵戦で制圧する他無かったようです。
地道な戦闘の末、7月中旬にサン・ローはほぼ制圧されました。



 さて、ここまでは両軍ともにうんざりするような膠着状態ですが、いよいよ戦況が大きく連合軍に傾きます。

7月中旬、イギリス軍・カナダ軍はカーン周辺のドイツ軍に対し大々的な攻勢作戦を開始しました。
作戦そのものは失敗で、カーンを占領した代わりに大損害を被ってしまいました。

 しかし、この作戦にはもう一つの目的があったのです。
陽動、つまりはドイツ軍の主力をカーン方面に引き付け、サン・ロー方面が手薄になったところでアメリカ軍が突破する、というものですね。
思惑通りドイツ軍はサン・ロー方面から部隊を引き抜き、カーン方面の防御を固めてしまいます。

その隙を突き、アメリカ軍は7月25日に「コブラ作戦」を開始。
集中的な絨毯爆撃と数度に渡る攻撃でドイツ軍の防衛線は次第に各所で破綻し、分散。
アヴランシュの幹線道路まで到達したアメリカ軍はいよいよ用意していた装甲軍団を投入します。指揮官はご存知パットン将軍です。

パットン将軍は今までの停滞ムードを吹き飛ばすかのように爆走。ドイツ軍の残存戦力ではもはや食い止めることができず、瞬く間にブルターニュ地方の大半がアメリカ軍の手に落ちました。
いやー、すごいですね。もちろんこの間もカーン方面で英・加の攻撃は続いていて満足に対処できないというのもあるんですが、流石の猛進っぷりです。そりゃ映画化もされるわ。

それに対しドイツ軍は(ヒトラー総統の強い意向を受け)、パットン将軍の退路を断って孤立させんと予備の装甲戦力をかき集め反撃に出ましたが、事前に察知され爆撃を受けてあっさりと失敗します。
そして行動を開始してからわずか2週間足らずで、アメリカ軍は南のナント、東のル・マンへと進み、さらに北上してイギリス・カナダ軍との連絡を目前にしていました。

すなわち、カーン方面にいたノルマンディーのドイツ軍主力がまとめて包囲寸前の窮地に立たされたのです。



さらに狭まっていく退却路に、8月16日、西方軍司令のクルーゲ将軍はついに総統命令を却下して退却を決定します。

※元最高司令官のルントシュテット将軍は、対英米和平に傾いたことで7月頭に解任されています。
ちなみに、ロンメル将軍が爆撃を受けて重傷を負った7月中旬からは軍集団司令官も兼任しています。大変ですね。
さらにクルーゲ将軍もこの抗命の直後、ヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われて更迭、ベルリンへと向かう汽車の中で自殺します。後任はモーデル将軍。

一方連合軍ですが、パットン将軍は友軍と衝突する危険性から進軍を停止し、包囲を閉じるのはカナダ軍とポーランド軍が担当することになりました。

しかし、ドイツ軍も必死です。
装甲師団の激しい抵抗に進軍を妨げられ、ようやく配置に着いてもドイツ軍の反撃により退却路を開けられてしまったりと、包囲までにはかなりの日数を要しました。敢闘はしたもののやはり力不足だった感はありますね。
結局、進軍を開始したのは12日ですが、完全に包囲が完成したのは21日になってからでした。

ですが、ドイツ軍の抵抗もここまでです。完成した包囲が再び破られることはなく、取り残された将兵は脱出の術を失いました。

このファレーズ包囲網を巡る戦いで戦死したドイツ将兵が約1万人、捕虜になったのが約5万人です。一方脱出に成功した人数ははっきりと分からないものの、2,3万~5万人は包囲から逃れたとか。
それらの人的被害は言うまでもありませんが、同時に数百輌の戦車をはじめ数々の兵器を失い、何とか包囲を逃れた将兵も装備をほとんど失っており、ドイツ軍は数個の師団が解体されるほどの大損害を受けました。


そして、連合軍は8月25日にパリを解放。
実は戦略的に意味が薄いこと、首都だけに激しい反撃が予想されることから後回しにされる予定でしたが、レジスタンスの蜂起やド・ゴールの偽情報すら交えた猛プッシュによりアメリカ軍も進軍を決定しました。
フランス人による歓迎で進軍が遅れたり、パリ破壊命令が出され、パリ指揮官がそれに従わなかったり(この時ヒトラー総統は苛立って「パリは燃えているか」と何度も確認したと言われています。)しましたが、特にこれといった戦闘はありませんでした。

その後連合軍は30日にセーヌ川を渡ることに成功し、ドイツ軍はセーヌ川以西から一掃されました。
こうして、オーバーロード作戦は成功に終わったのです。


  ドイツ軍が敗北した理由は色々あると思いますが、物量差と東部戦線での苦戦は言うまでもないとして、一番に挙げられるのは航空戦力の圧倒的劣勢ですね。実のところ、陸軍を支援するための事前砲撃・絨毯爆撃は成功率が低く、自軍を誤って攻撃したり、オマハ・ビーチのように損害を免れたドイツ軍によって予想外の反撃を食らったりする事もしばしばあったようです。
しかしドイツ軍の輸送を遅滞させたのは間違いありませんし、ドイツ軍の反抗作戦が爆撃で阻止されることもありました。ちなみに約3か月の作戦中、出撃した回数は48万回だとか。
また、しょっちゅうヒトラー総統が軍部に口出ししたのもドイツ軍の判断を遅らせる原因になったと言われています。

ただ、どちらかというと連合軍が苦戦した印象の方が強いんじゃないでしょうか?
どうにかすればドイツ側が勝てはしなくとも、終戦まで延々と膠着状態が続いたのではないかと思えるほどです。
あちこちのサイトを見ると、シェルブールを早期に占領できなかったことや、連合軍内の反目などが原因の1つと言われていましたが、「これ!」という決定的なものは無く、結局のところ「ドイツ軍が予想以上に強かった」と言う他なさそうです。

まあ粘ったところで東部戦線の劣勢は覆らないわけで。もしかしたらドイツ以西が軒並み共産圏に入っていたかもしれませんが、いずれにせよ敗北は免れないかと思います。



 さて、いよいよ「将軍の栄光」ではどうだったか、解説したい・・・んですが、ぶっちゃけこのステージはかなり再現度が低いです。
全体的にマップの縮尺が広いため、ノルマンディーどころか北フランス全体に上陸するようになっています。ブルターニュに自軍、シェルブールに米・英・仏軍、ノルマンディーからカレーにかけて英・カナダ・ギリシャ軍(何故かポーランドではありません)が設定されています。
一応ノルマンディーは手薄に、カレーは堅固になっています(が、そのカレーに友軍が攻撃を仕掛けるという矛盾)。後はカーンやシェルブール、サン・ロー周辺などは防衛施設なども建設され、比較的守りが固くなっています。

作戦名から「ノルマンディー上陸作戦」ですから、ノルマンディーに上陸していないのは不自然と言えば不自然ですね。
あとは航空優勢などはシステム上再現不可能ですが、もしかするとアイゼンハワー将軍の空母がその代わりになっているのかもしれません。物量優勢は再現すると難易度が著しく落ちるのでこちらも致し方ないかと。

 (数少ない)再現ポイントは自軍の進軍ルートですね。
普通にプレイしていれば自軍はフランス北西端に上陸してから南下し、ナントを制圧した後にル・マン(と思われる目標町)を占領し、そのままパリを解放するという流れになっています。
これは恐らくパットン将軍の進軍ルートを模しているのでしょう。ファレーズ包囲戦が再現されていないため、そのままパリへと進むようになっているのだと思われます。
パリ防衛隊がロンメル将軍はじめステージ中最強なのは気になりますが、一番強い敵が一番奥にある方が燃えますからね。仕方ないですね。
それからドイツ海軍がほとんど障害にならない辺りも史実通りです。

 ただ、この作戦の意義や規模などを考えると、この再現度はやや残念かな、と思ってしまいます。
上陸地点がバラバラなのは縮尺が大きすぎてノルマンディーがめちゃくちゃ狭い範囲になってしまっているからでしょう。多分パリをマップに入れるためだと思いますが、それならいっそのこと上陸とパリ解放でステージを分けても良いくらいの作戦だと思うんですが。まあ他のステージの縮尺と大きく差が出てしまう可能性があるので、それはそれで問題かも知れません。


将軍の栄光で書けることがほとんどないという事実にビックリしながらも、この辺りで終わらせて頂きます。
もし足りない点があれば言っていただけば補筆したいと思いますのでよろしくお願いします。

それでは。

2018年9月1日土曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第七回・ノルマンディー上陸作戦)

  どうも。
今回はいよいよ西部戦線のハイライト、「ノルマンディー上陸作戦」(連合側『ノルマンディー上陸作戦』)の解説です。
史上最も有名な作戦の1つであり、数々の映画の舞台にもなっていますね。
中でもスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は観たことのある方も多いと思われます。
今さら解説することも無いような気もしますが、とりあえず行ってみましょう。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


まずは背景から。

 前回のハスキー作戦の際にも説明しましたが、フランス敗北以来西ヨーロッパは完全に枢軸の勢力圏となっており、ドイツ軍によるソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」が行われる1941年6月には、膠着状態の北アフリカを除けば他に戦線は存在していませんでした。
必然的に枢軸軍の主力を引き受ける格好となったソ連は敗北を重ね、ヨーロッパに攻勢を加えて枢軸の戦力を分散するよう連合国に求めていました。

そういった背景から立案されたいくつかの反撃計画のうち、まず実行されたのが北アフリカでの「トーチ作戦」です。これで北アフリカ戦線は連合の勝利に終わり、「ハスキー作戦」を初めとするイタリア半島への侵攻計画に続いていきます。

そしてもう1つ実行されたのが今回の「ノルマンディー上陸作戦」が行われた「オーバーロード作戦」です。
ドイツが支配する北ヨーロッパに上陸し、そのまま本国ドイツへ侵攻しようという最も直接的な計画でした。

あんまりにも絵が下手だったので描き直し。


 もちろん、上陸地点にはノルマンディー以外にもいくつか候補地がありました。
イギリスから航空支援が可能な距離という制限の中で、最有力だったのがパ・ド・カレー(カレー地方)。地図を見れば分かる通り、最もイギリスに近いというメリットがあったからです。
ですが、それだけにドイツ側の警戒も強く、守りが固いといった理由からノルマンディーが選ばれたという訳ですね。まあ次項で説明するように、ドイツのその警戒心が裏目に出てしまうわけですが。


 さて、『将軍の栄光』内で「準備に1年以上費やしてきた」とアイゼンハウアー将軍が言っていましたが、確かに作戦実行の前年(1943年5月)には作戦が実行に向けて具体的に動き始めていました。
「史上最大の上陸作戦」とも呼ばれるこの作戦。その準備も半端ではありません。
大量の人・物資がイギリスへと集められ、水陸両用戦車などの新兵器も用意が進められました。

特筆すべきは欺瞞作戦「フォーティチュード作戦」で、目標があたかもノルウェーやカレーであるかのように集中的な爆撃を行ったり、国内ラジオを流したり、頻繁に無線で通信したり、果てはパットン将軍(精神を病んだ兵士を殴って謹慎中でした)を指揮官とする架空のカレー侵攻軍団を編成し、張りぼての戦車や施設を作ったりと、徹底してノルマンディーから目を逸らせようとしていました。
さらに、イギリスに送り込まれたドイツのスパイは全員諜報部に把握された上に多くが寝返って偽情報を流したため、ドイツ軍首脳部はカレーが目標であるとすっかり信じこんでしまいました。さすがジェームズボンドの国。

それからフランス各地に激しい空襲が行われ、輸送路が寸断されたということも付け加えておきます。(制空権に関しては終始連合国が握っており、上陸した後も何名ものドイツ将校が空爆で命を落としています。)
また、フランス国内のレジスタンスも同様に活動しており、鉄道を止めたり、電線などを破壊して通信網を寸断したそうです。これらが後にドイツの初動を遅らせる一因となるわけですね。


 さて、対するドイツの状況。
連合国の動きから反攻作戦は近いと踏んだドイツは、北部フランスを管轄するB軍集団の司令官にご存知ロンメル将軍を任命します。
また『大西洋の壁』と名付けられた、ノルウェーからスペイン国境までを守る長大な要塞線が建設されています。
が、あまり防衛の態勢が整っているとは言えませんでした。

まず、上で述べたようにドイツ軍の主力は東部戦線に集中していました。逆に西ヨーロッパで守りについていたのは士気の低い占領国の徴集兵や、東部戦線から戻って疲労した兵士たちです。
また、「大西洋の壁」は実のところその多くが未完成であり、最も警戒されていたカレー地方でも計画の80%、ノルマンディーは20%程度しか完成していなかったそうです。
というのも、その建設に着手したのが、ソ連侵攻作戦が怪しくなってきた1942年からだったため、時間も資材も人員も足りなかったのでしょう。

ただロンメル将軍が着任してからは、兵員を強化したり、空挺対策に沼地を広げたり、自ら考案した障害物などを設置したりするなど、急ピッチで強化されていったそうですが。
そうそう、将軍の栄光に「大西洋の壁」というステージもありましたね。
あちらはナチスドイツが逆にアメリカ上陸作戦を行うという設定でしたが、アメリカ側の防衛線という意味のタイトルだったんでしょうね。
まあ流石に計画すらされていないようでしたので、元ネタ解説はありません

また、ドイツ首脳の防衛構想も一致していません。
ロンメル将軍は、連合軍が上陸した際に全力で撃退するべきだと考えていました。上陸直後は遮蔽物も無ければ戦車や重火器を十分に準備している暇も無い、おまけに防衛部隊ががっちり構えているところへ飛び込む訳ですから、最も脆弱と言って良い時間帯なのです。
そこに自慢の装甲師団をぶつけ、一気に撃退してしまおう、という作戦ですね。

しかし、西方最高司令官ルントシュテット将軍をはじめ、ドイツ陸軍幹部の多くはそれに反対しました。装甲師団の強みは機動力であり、前線に張り付いて防衛を行っていてはその機動力を活かせません。また、海岸線近くに控えている装甲師団が艦砲射撃で被害を受けるという恐れも十分ありました。
それよりも、装甲師団は内陸で温存しておき、連合軍をあえて内陸部へと引き込むべきだと主張したのです。上手くいけば連合軍の後背を叩き、退路を断つことすら可能でした。
素人目にはどちらも一理あるように思えますが、結果的に言えばロンメル将軍の方が正しかったようです。詳しくは次回に説明しますが、連合軍の爆撃機によって装甲師団が迅速な動きをとることはできなかったのです。

双方譲らず、対立を収めるためにヒトラー総統はロンメル将軍に3個師団の指揮権を与え、残り4師団は自分の承認無しに動かせないようにしました。ノルマンディーが標的になりうると考えていたロンメル将軍は、その3個師団のうち2個師団をカレーに、そして1個師団だけをノルマンディーに割り当てました。
この装甲師団は上陸当日、連合軍の侵攻の出鼻を挫く活躍をしています(そしてその日のうちに半壊しています)。


 さて、そんな双方の状況のもと、1944年6月6日午前0時ごろから連合軍の作戦が開始します。
当初は6月5日が計画実行日、『D-day』だったのですが、悪天候で日付が変わってしまいました。

ドイツの西方最高司令官は前述の通りルントシュテット将軍、そして司令官はロンメル将軍。
連合側の最高司令官はアメリカ軍のアイゼンハウアー将軍、司令官はイギリス軍のモントゴメリー将軍です。
アイゼンハウアー将軍は後に大統領にもなることで有名ですが、第二次世界大戦が始まった当時はまだ中佐でした。それがこの時には陸軍大将で作戦最高司令官。凄い出世ですね。
あ、僕は元帥でも少佐でもまとめて「将軍」と呼んでしまう悪癖があります。見逃してください。

その他、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英連邦のほか、フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ギリシャ、ベネルクス三国、ノルウェーなどなど、これまでこれまでドイツが滅ぼしてきた国の亡命政府軍が参加しています。まるでオールスター。
「将軍の栄光」で登場したのは英米仏を除けばカナダとニュージーランド、ギリシャだけですが、英米仏以外ではカナダ、ポーランドくらいしか目立たないため致し方ないでしょう。なぜギリシャが入ってポーランドが入っていないのかは知りません。

一方のドイツ軍ですが、諜報部は連合軍がフランス国内のレジスタンスに向けて流した、上陸を知らせる暗号を解読していました。
もちろん諜報部は各方面に警報を出していたのですが、連絡の不備や「まさかラジオで暗号を流さないだろう」という先入観などから、どうにもあまり真剣に受け取られなかったらしく、警戒態勢をとったのは何とカレー地方の軍のみでした。

さらに、その数日前からしばらく悪天候続きの予報であったためドイツ軍は完全に油断しており、ロンメル将軍に至っては奥さんの誕生日を祝うため休暇を取っているほどでした。
ここ、割とほっこりエピソードですよね。こういうエピソードが残っているのも現代でロンメル将軍が(ナチスドイツの将校の中では)好まれる一因かもしれません。



ではいよいよ作戦の詳細に移りましょう、と言いたいところですが、案外長くなってしまいましたので今回はこの辺で。「将軍の栄光」がらみの話はほとんどありませんでしたが、まあ次回に持ち越しということで勘弁してください。

次回は近いうちに更新し・・・たいと思います。
それでは。
連合軍の上陸地点。詳細は後編で。

2018年7月8日日曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第七回・ハスキー作戦)

 お久しぶりです。なんか毎回言ってますねこれ。
今回の元ネタ解説は「ハスキー作戦」(西部戦線・連合側『ハスキー作戦』)です。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。



 まず、作戦の前提から。

1943年5月、北アフリカでの戦闘、アフリカ戦線が連合側の勝利に終わりました。

そこで、次は枢軸に支配されているヨーロッパ本土を奪還すべく、また東部戦線のソ連をさらに援護するために、急いでヨーロッパへの上陸作戦を計画します。

そこでまず実行されたのが、イタリア半島の先端からすぐ南西にあるシチリア島への上陸作戦、「ハスキー作戦」です。
島といっても半島から約3キロしか離れてませんから、もはや本土といっても過言ではありません。
もちろん本土上陸作戦にも有用ですし、ここを抑えれば(東)地中海はほぼ完全に連合側の手に落ちると言っても過言ではありません。




その前段階として、連合はシチリア島のさらに南西にあるパンテッレリーア島を攻撃します。
爆撃と砲撃を雨あられと受け、島の施設は損壊。
戦闘らしい戦闘もなく降伏し、これでアフリカからシチリア島までの地域は連合の支配下に落ちました。

 その一ヶ月後、1943年7月にハスキー作戦が実行されます。

対するシチリア島は連合に制空権・制海権を握られている上、装備の充実したドイツ軍は少数しか参加していませんでした。
実はこの理由の1つとして、少し面白いエピソードがあります。
イギリス軍の流した偽情報により、ドイツはシチリア島が攻撃目標ではないと思い込み、
シチリアに割くべき部隊をギリシャやサルディニア島に当てていたのです。
ここでは割愛しますが、気になる方は「ミンスミート作戦」で検索すると色々と出てきますのでよろしければ。

また、ムッソリーニに弾圧を受けていたシチリアンマフィアが連合側と内通するなど、枢軸側にかなり不利な情勢だったようです。

そんな中でも枢軸側は善戦し、幾度か連合軍の上陸を退けます。が、やがて西部の防衛線が崩壊し、島西部は連合軍に制圧されます。

赤:アメリカ軍 オレンジ;イギリス軍 青:枢軸軍

枢軸軍は後退しながらも防衛線を再構築しますが、連合軍がイタリア本土とシチリア島をつなぐメッシーナ海峡を占領しようとしていたため、ドイツ軍はシチリア島放棄を決定。これが1943年8月のことです。


 予想外の苦戦を強いられた連合側でしたが、この戦いの影響はやはり大きかったようです。
もともとファシスト党内ではアフリカ戦線で劣勢が明らかになりつつある枢軸を脱退し、連合側との単独和平に動くべきだという意見が出ていたのですが、このハスキー作戦が決定的だったようです。

シチリア島での敗北が明確になったにも関わらず単独講和を否定するムッソリーニに対し、ついに解任決議が可決。
追って国王エマヌエーレ3世が勅令を下し、ムッソリーニは正式に解任され、身柄を拘束されました。
が、新政権による水面下での和平交渉は難航し、連合側によるイタリア本土上陸作戦が実行に移された1943年9月、やっと無条件降伏を受諾。

ところが今度は降伏を察知していたドイツ軍により北部イタリアが占領され、救出されたムッソリーニの傀儡政権「イタリア社会共和国(通称サロ共和国)」が樹立されました。
これ以降は南北の連合軍とドイツ軍にそれぞれイタリア兵が参加する、という格好になってしまいます。

ちなみにイタリア半島の侵攻作戦は上手く行かず、ナチスドイツが降伏する1945年まで延々と続くことになります(イタリア戦線の終結が1945年5月4日、ドイツの降伏が5月8日)。



 さて、「将軍の栄光」との関連について。
この作戦では、島の西部はアメリカ軍(司令官パットン)、東部はイギリス軍(司令官モントゴメリー)が担当しました。
東部は北上するとメッシーナ海峡に到達するので、島の位置関係から見るにイギリス軍の方が重要かな?と思ったら、やはりWikipediaでも「北アフリカでの戦闘結果より錬度に不安があるアメリカ軍を助攻とし、イギリス軍を主力とするとした。」
とありました。

青色は枢軸側。東岸ががら空きに見えますが、そうでもありません。多分。

「将軍の栄光」でもアメリカ軍とイギリス軍が参加していましたが、その際に登場した将軍もパットンとモントゴメリーでしたね。他にも色々いましたが。
パットンが「イギリス軍に遅れを取るな!」などと言ってたのも、主力を担えなかったことに発奮していたのでしょう。
(口だけではなく、パットン将軍は史実でシチリア島の州都パレルモを占領し、シチリア島陥落の功労者となっています。そのせいで面目を潰されたモントゴメリー将軍の恨みを買ったとか買ってないとか。)

 ただし、進軍ルートは全く違います。
史実では南端から上陸していますが、ゲーム内ではシチリア島の西端から上陸するようになっています。
一応史実通りにできない事もないと思いますが、イタリア海軍が邪魔なので・・・
ていうかイタリア海軍が出張ってる時点で史実とは違うんですけどね。

ただ、ステージ途中でイタリア軍の士気が下がるというイベントに着目してみてると、おそらく上陸地点が違うのはシチリア西部を占領した辺りでこのイベントを発生させるためだったのでしょう。
事実、ムッソリーニの解任が行われたのはシチリア西部が陥落した直後のことでしたから。

 また、目標都市がイタリア半島にも設定されているのは、ハスキー作戦後のイタリア半島上陸作戦が行われたことを示すためでしょう。
まあイタリア半島を守っているのが実際には参加していないロンメル将軍で、さらにシチリア島にはイタリア軍しかいないという差異はありますが。
(難易度の観点から登場する将軍が史実と違うのは、このゲームではよくある事です)。

 それから、アイゼンハウアーが「対空砲のせいで爆撃が効かない!」みたいなことを言っていたのも、連合軍が制空権と制海権を握っていながらも苦戦したことを表現していたんですね。
最初に「イギリスと行う最初の共同作戦だ(うろ覚え)」と言っていたのもその通りで、それ以前にも協力して戦うことはありますが、今回のように一方の指揮下に置かれていないのはこのハスキー作戦が初だと思います。
間違ってたら教えてください。


というような点を踏まえると、このステージは再現度高めと言って差し支えないのではないでしょうか。


 それから、以前「アシカ作戦」の元ネタ解説において、「軍艦と戦車では相手にならない」と書きましたが、このハスキー作戦において駆逐艦とティーガー戦車との撃ち合いがあったという記述があります。
結局戦車側が大破したそうですが、駆逐艦にも装甲に穴が開いたとあります。
という訳で、一応全く通用しない訳ではなさそうですね。
参考までに書き残しておきます。

それでは。







2018年4月22日日曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第六回・群狼作戦)

 お久しぶりです。
今回の元ネタ解説は「群狼作戦」(西部戦線・枢軸側『群狼作戦』)についてしようかと思ったのですが、
後述しますがこの「群狼作戦」とは「どこどこを制圧せよ」みたいな作戦ではなく、むしろ戦術と言うべきものであり、解説すべき余地はあまりありません。
パスしようかとも思ったんですが、せっかくなので大戦中の海軍、とりわけUボートの動きについて解説したいと思います。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 WW2におけるドイツ海軍の任務は、ほとんどイギリスに対する通商破壊にあったと言っても過言ではありません。
その理由は単純に、イギリスの海軍とまともに戦って勝てるはずがないからです。
イギリスはワシントン・ロンドン海軍軍縮条約で多くの超ド級戦艦艦を廃棄しましたが、それでも世界トップクラスである事には変わりなく、WW1とその戦後処理で弱体化したドイツ海軍を圧倒していました。

参考として英独の主力艦の数を比較すると、
 イギリスの主力艦(戦艦・巡洋戦艦)15隻程度に対し、
 ドイツは巡洋戦艦2隻と戦艦2隻、そして主力艦としてはやや心許ないポケット戦艦が2隻。
 ちなみにイタリアは戦艦5,6隻程度。


 もちろん撃沈・修理・就役でこれらの数は増減しますし、各戦線での分布も異なるため一概には言えませんが、全体的に見て英>>>伊>独という構図は変わりません。


そこで、 ドイツ海軍は大西洋の商船を攻撃し、イギリス海軍が撃退にやって来る前に逃げるというのが基本方針となっていました。
その中で最も活躍した艦が、通称Uボートと呼ばれる潜水艦のシリーズです。U-571という映画が有名ですね。

WW1の際、商船を無差別・無警告で攻撃する「無制限潜水艦作戦」で多大な成果と武名(もしくは悪名)を手にし、ヴェルサイユ条約で保持・生産が禁止されていましたが、ドイツは国外に作った造船会社でこっそりと(?)技術を研究しており、
1935年に一方的にヴェルサイユ条約を破棄した直後から新型の製造を開始しています。


 1939年のポーランド侵攻時には60隻ほどを所有していましたが、うち大西洋まで航行できる型はわずか20隻程度であり、補給や修理を考えると実際に戦場で働いているのは7隻程度という有様。
この状況に対し、潜水艦隊司令デーニッツ提督はイギリスを降伏させるには航行能力の高い型のものが少なくとも300隻必要だと主張していました。

しかし、予算は主力艦に回され、結局ドイツ海軍がUボートを300隻同時に運用する事はありませんでした。
実のところ、陸軍で歩兵が主力とされ戦車の機動力が軽視されたように、海軍では海上の艦艇が重視され、潜水艦は当のドイツでさえ軽んじられていたそうです。
他にも、陸上兵器を始め様々な軍備を充実させる必要性もある中で、それだけの数を揃えるのが現実的だったのか?という点も考えなければならないと思いました(感想文?)。

 最初は国際規則にのっとり、商船を攻撃する際は積み荷を臨検し乗員を避難させた上で撃沈するという面倒な手順を行っていましたが、間もなくヒトラーにより制限は緩和され、最終的には中立国の船も含め、無警告で撃沈するようなります。無制限潜水艦作戦の復活です。
当然国際法違反ですが、まあ潜水艦で一々浮上するのも非現実的ですし、何より連合軍もやってますんで。


 それらの制限にも関わらず、Uボートは1939年9月のポーランド侵攻直後から北海・東大西洋で多数の戦果を挙げており、なんと空母や戦艦すらも撃沈しています。

これに対して、イギリスは普段バラバラに行き来する商船たちを集めて1つの船団にし、軍艦が護衛する護送船団方式を取り入れます。
さらに積極的な策として哨戒専用の艦隊を編成し、Uボートの探索にあたりました。
しかし小型かつ潜水能力の高いUボートを発見するのは困難であった上、
まだ発見する可能性の高い飛行機はこの時には潜水艦を攻撃する術を持っていませんでした。
イギリス海上艦の甚だしい不足と相まって、結果としてはあまり有効な策ではなかったようです。


 そんな感じで順調に商船を沈めていたある時、Uボートに出撃禁止命令が出されます。
ノルウェー侵攻作戦、「ヴェーザー演習作戦(→元ネタ解説)」に参加するためです。

この作戦は非常に珍しい事にドイツ海軍の多くが海上輸送の護衛などに従事していましたが、Uボートもその中に加わっていたのです。
厚い氷と魚雷の不具合によってここでは大して活躍する事ができませんでしたが、ドイツの駆逐艦は10隻、巡洋艦は1隻撃沈されているのでそれに比べればマシですね。

ちなみに結果として占領に成功し、ノルウェーにはいくつかUボートや航空基地が作られました。

それよりもはるかに重要かつUボートにとって最大の幸運が訪れたのが1940年のフランス侵攻。
地図を見て頂ければ分かると思いますが、フランス西岸の港からであればわざわざイギリス本土を迂回しなくとも大西洋に進出できます。
単純な距離としても大幅に短縮され、活動時間も範囲も格段に延びました。

しかもダンケルク撤退戦などでイギリス駆逐艦は減少の一途。
ここまではUボートの勝利と言ってまず間違いないと思われます。

  そんな中で、いよいよ「群狼作戦」が導入されました。
本来は単独で活動するように想定されていたUボートでチームを編成し、偵察機が発見した船団の予測進路で待ち伏せ、包囲殲滅するというものです。
あるいはUボート自身が船団を発見したら周囲の艦を無線で呼び包囲するという戦術だとする記述もありました。

まあいずれにせよ、簡単に言えばUボートによる集団攻撃ですね。
先述の通り数の少ないイギリス護衛艦では複数のUボートに対処できず、確かな効果があったようです。


 ですがここからしばらく、Uボートの戦果は上昇と下降を行き来します。
その要因の一つがイギリスの電波兵器の開発です。
開戦以降、イギリスはレーダーを始めとする電波系の兵器の開発を熱心に進めていました。
その結果小型化したレーダーは哨戒機にも搭載され、Uボートは夜間でさえ浮上中に発見される危険が生じました。
また哨戒機にも対潜装備が備えられたので、上空にも気を配る必要が出てきます。

さらに1940年9月、アメリカはイギリスに50隻の旧式駆逐艦を貸与しています。これらは対潜装備を整え、護衛兵力に加えられていきました。
後は変わり種として商船を簡易の空母などに改造した「CAMシップ」なども登場し、この辺で本当にカツカツだったんだな・・・と感じます。


他方で、ドイツは対ソナー装備やレーダー逆探知装備、新型魚雷等の兵器の開発や群狼作戦などで対抗します。
その他照射ライトだの何だのと非常に激しい開発合戦が繰り広げられますが、難解なので省略します。


 さて、この間ドイツの海上艦艇はほぼ壊滅し、首脳部は比較的安価で製造しやすく、かつ多くの実績を重ねてきたUボートを海軍の主力と定めます。
その証拠に、ヒトラーは水上艦隊の解体を宣言した事もあるほど(後に撤回)です。最初とはえらい違い。
実は海上艦艇も実力の割には活躍しています(巡洋戦艦フッドを撃沈したビスマルクが有名ですね)が、ここでは割愛します。

そのUボートの撃沈量は、むろん技術の進歩と艦艇数自体の増加があった事もありますが、アメリカへの布告(1941年12月)後でも着実に増加しており、アメリカ沿岸でも十分に成果を挙げていました。1942年には空母も撃沈しています。


 しかし、1943年以降、その活躍は次第に落ちぶれていきます。

まず北アフリカ戦線が枢軸側の敗北で終結し、そちらに割かれていた兵力が護衛船団に加わりました。
多くの空母も加わった事で、連合側の哨戒機が大西洋を広くカバーするようになったのです。

さらに上記の開発競争ですが、連合側が完全に優位に立ちます。
レーダーは進歩を重ね、海上に突き出た潜望鏡ですら発見できるようになりました。
とはいえレーダーは大型だったので、ソナーを搭載した哨戒機と攻撃担当の哨戒機の、通称「ハンターキラー」というチームが編成されました。

頼みの群狼作戦も、潜水艦の間で行われる通信を傍受できるようになった連合側にとっては逆効果に。
もちろんソナーも進化しており、潜っていてさえもすぐ攻撃を受けるようになってしまいました。

 結局新兵器や新型Uボートもその差を覆す事ができないまま、しかし連合軍の力を少しでも対Uボートに割くために、多くのUボートが撃沈を覚悟の上で終戦まで出撃し続けていく事になります。


 さて、「将軍の栄光」での潜水艦について。
潜水艦には色々と種類があるようですが、このゲームでは水上艦艇と同様に艦隊の一部として敵艦隊と戦う、艦隊型潜水艦という種類に近いものだと思われます。
当然以上のような通商破壊に従事したUボートとは全く異なりますね。まあゲームの性質上止むを得ない事ですけど。
またなぜか戦艦や空母に大ダメージを与えられるようになっていますが、これは良く分かりません。
多分ですが、ゲームバランス的な面からそういう特性が追加されているんじゃないでしょうか。
そういえば重戦車にも意外と突撃歩兵が有効だったりしましたね。EASYTECHさんは最強のユニットが最弱ユニットの群れに弱いという仕様が好きなのかもしれません。象がアリの群れに負ける、みたいな。


 それから、この『群狼作戦』ステージですが、元ネタとなるステージを見つける事ができませんでした。
ステージに記載されている年月は1942年12月。北アフリカ戦線でトーチ作戦が行われた時期ですね。
こりゃまた架空のステージかな、解説は無しかな、と考えていましたが、Wikipediaをくまなく探してみると、トーチ作戦の欄にこんな記述が。

北アフリカ上陸の「Gymnast(体育家)」、ノルウェー上陸の「Jupiter(木星)」、北フランス上陸の「Round-up(駆り立て)」、ブレストかシェルブールへの(本格的反攻ではない)限定的上陸である「Sledgehammer(大鎚)」が検討されていた。

・・・ノルウェー上陸?これだ!多分!


 という訳で、このステージの元ネタは、トーチ作戦実行が決定される前の原案の一つ、「Jupiter(木星)作戦」だと(勝手に)認定します。
まあ検討段階で却下された作戦なので、具体案は見つかりませんでした。
ゲーム内のステージ説明によると、ノルウェー沿岸のUボート基地を破壊し、通商破壊を妨害するのがイギリス側の目的とされています。
それが実行に値するのかどうかは分かりませんが、前記の通りノルウェー沿岸にもUボート基地は作られていたので、一応辻褄は合っている・・・と思われます。

プレイ時はドイツ潜水艦隊の数が少なすぎ!とか思っていましたが、よくよく調べてみるとイギリス海軍と正面切って戦ってただけでもむしろ異常な充実っぷりと言うべきかもしれません。

正直これ以上は書く事が思い浮かびません。ですので短文になってしまったかもしれませんが、これにて失礼させて頂きます。
それでは。






2017年11月13日月曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第五回・バルカン半島の戦い)

どうも。
例によって南極戦線の攻略が滞っているので、いつものごとくこのコーナーで間をつなごうと思います。
今回の元ネタ紹介は「ギリシャ・イタリア戦争」「マリータ作戦」「メルクール作戦」(西部戦線枢軸側『バルカン半島の戦い』、北アフリカ戦線枢軸側『メルクール作戦』)です。
今回だけは分割すると非常に分かりにくいため、不本意ながら北アフリカ戦線のステージ解説も行います。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 まずあらましから。
前回はナチスドイツのフランス侵攻を取り上げましたが、同じくファシズム国家イタリアも同様に侵略を進めたいと考えていました。

 前提として、1939年にバルカン半島に位置するアルバニアを侵略・併合(厳密には保護領化)していました。
ですが、その隣に位置するギリシャはイギリス寄り。
ここから連合国側がバルカン半島で影響力を強める事を懸念し、またドイツ軍の電撃戦のような成功を収めたいと考えており、
さらにヒトラーが自国に何の相談もなく侵攻を進めていく事を面白く思わなかったムッソリーニは、ギリシャへの侵攻を計画します。
オレンジは枢軸寄り。ユーゴは枢軸寄りながら、やや中立。

 しかし、既にイタリアは北アフリカで連合国と戦争中であり、さらに別の地で戦端を開く事は困難です。
それに加えて気候や地形の問題、国力の低さなどから周囲は反対しますが、ムッソリーニはこれを押し切って侵略作戦を開始します。さすが独裁政権。

ともあれ1940年10月末、約16万名のイタリア軍とアルバニア人部隊がギリシャへ進撃を開始します。
ちなみにこの際(アフリカ戦線に回してくれという軍部の声を無視して)1000輌の戦車を派遣しています。これのせいでアフリカ戦線の劣勢が決定的になったとか。
対するギリシャ側の兵力はよく分かりませんが、まあ全体的に劣っていた事は間違いないと思われます。

 ところが、というか案の定というか、この侵攻は失敗に終わります。
まずイタリア軍は訓練や装備が不十分な兵が多く、逆にギリシャ軍は想定以上に強力でした。
加えて山の多いギリシャは伏兵や奇襲など、地の利を活かしたゲリラ作戦を実施。
ただでさえ険しい山を越えなければならないイタリア軍の進軍速度をさらに遅らせます。

頼りの戦車も険しい山道では大して活躍もできなかった・・・らしいです。
戦車に(も)詳しくないのであまり説明できませんが、デコボコ山道より見晴らしの良い平野の方が戦車にとって戦いやすいというのは想像に難くありません。
悪路ゆえに移動速度が落ち、死角も増え、さらにエンストなど故障の心配もあるでしょう。キャタピラがついているとはいえ自動車の仲間ですからね。

加えて夜はマイナスまで落ち込むギリシャの秋の寒さがイタリア軍に襲い掛かり、士気を大きく失わせました。
無論動員されたアルバニア人はさらに士気が低く、寝返る者まで出る始末。
ついにギリシャを落とすどころかアルバニアの一部をギリシャ側に占領されてしまうまでに至ります。



この状況を受け、ムッソリーニはヴィスコンティ・プラスカ司令官の罷免と増員を決定。これが11月、開戦後2週間の事です。

それでも戦況は変わりません。参謀総長の交代でギリシャの進撃は食い止められますが、反撃は成功しないまま翌年4月まで交戦は続きます。

 結局、このギリシャ・イタリア戦争はイタリア側の敗北と言ってよいでしょう。
もちろんギリシャ軍は他を手薄にし、文字通り全力を持って迎え撃ったわけですが、それでも寡兵は寡兵。
ギリシャの兵力を侮り泥沼に陥った・・・耳が痛い話です。(→「将軍の栄光」攻略番外編参照)


 ですが勝利を収めたギリシャも心中穏やかではありません。
イタリア軍と交戦しているという事は、当然ドイツ軍とも戦闘に入る可能性も高いという事です。
国力的にこれ以上の戦線拡大は不可能ですし、フランスが敵わなかったドイツ軍と戦って勝てるはずもありません。
基本的に中立を保とうとはしていますが、それも長くは続かないでしょう。

 さらにイギリスについての状況を。
イギリスは既に北アフリカでドイツ・イタリアと戦闘中ですが、アルバニアをイタリアが占領した直後、1939年の宣言によってギリシャを支援する義務がありました。
実際にイギリスはイタリア侵攻直後、クレタ島(ギリシャ本土の南)に援軍を送っており、そもそもギリシャ軍の軍備は北アフリカ戦線で鹵獲された枢軸側(イタリア軍)の武器弾薬によって賄われていました。何という皮肉。

 そしてナチスドイツ。
正直イタリアの独断と枢軸国を貶める劣勢に怒りと迷惑を覚えつつ放置していたドイツでしたが、イギリスが前述のクレタ島に援軍を送った時点で介入を決意します。

というのも、ルーマニアの大油田はドイツの生命線です。え?ヨーロッパに大油田?と思うかも知れませんが、ルーマニアも中東と同じくアルプス・ヒマラヤ造山帯に近く、当時としては産油国でした。
このままイギリスがギリシャに駐屯し続ければ、この油田が空襲の危険にさらされます。
そうなればソ連侵攻どころではありませんね。


 そんなわけで、「マリータ作戦」と名付け、ギリシャへの侵攻計画が検討されます。
当初このギリシャ侵攻はアドリア海のみならず、ジブラルタル海峡まで含めた地中海全域を支配する作戦の一部だったのですが、
スペインの協力拒否+ユーゴスラビアのクーデター
という状況の悪化により、開戦までにはギリシャ・ユーゴスラビア攻撃へと主目的が変わってしまいます。

 さて、ギリシャ・イタリア戦争の最中、ギリシャはドイツ軍が絡んでくる前にアルバニア方面の戦線を終結させたいと考えます。そこでイギリス軍にさらなる援護を求めましたが、イギリス軍も前述の通り北アフリカ戦線でし烈な戦いを繰り広げており、そんな余裕はありませんでした。
一応若干の援軍を送ると申し出はしましたが、ドイツ軍を刺激しないようギリシャ側から断られてしまいます。

この辺りに、今のうちに優位に立ちたい、ドイツと戦いたくないという二つの思惑を持つギリシャの難しい立場が表れている気がします。

ですが、「同じくドイツ相手に奮闘する小国ギリシャを見捨てて良いのか」という政治的(感傷的)思想のもと、
イギリスはギリシャへの援護に積極的になっていきます。折しもイギリスは北アフリカ戦線でイタリア軍に大勝、余裕ができた兵力を一部ギリシャに回す事ができました。

加えて中立を堅持しようとしていたメタクサス首相が死亡。
そしてドイツ軍との衝突が避けられそうにない状況から、ギリシャはイギリス軍の援軍を受け入れる事を承認しました。
さらにドイツを完全に怒らせてしまったユーゴスラビアも加わり、この三国が連携してドイツ軍に対処する事になります。とは言ってもすぐにドイツ軍の侵攻が始まり、実際にはまともな連携を取ることはできませんでしたが。

 続いて、ギリシャの作戦を紹介します。
ギリシャはブルガリアと仲が悪く、国境にメタクサス・ラインと呼ばれる山地を活かした防衛線を築いていました。
そこでギリシャ軍はその防衛線を用いる事を決定します。これはドイツ軍の大部隊が通れる道はカバーできるものでした。


ハンガリー・ブルガリアは枢軸に参加してます。

ただ、装備も量も劣るギリシャ軍がこの広範囲の防衛線を守るのは難しいと考えたイギリス軍の司令官ウィルソンは部隊を動かさず、よりコンパクトな防衛線をその南西に配置します。
ここならアルバニアの部隊とも連携が取れますが、これだとギリシャの北東部は放棄も同然。さらに結局ユーゴスラビア方面は依然がら空きと言って良い状態です。

ただでさえ少数なのに防衛線を二つに分けんでも、という疑問がわきますが、ギリシャ軍にとってギリシャ北東部を見捨てるというのは受け入れがたかったのではないでしょうか。



 さて、マリータ作戦を目前に控え、ドイツ軍はイタリア軍にある要請を出します。
それは英軍の陣地であるエジプトとギリシャ間の補給路を断絶する事でした。
バルカンの制空権はほぼドイツ軍が握っており、ギリシャへの輸送はイギリス海軍が行っていましたから、これが成功すれば枢軸の優勢は揺らぎないものとなるでしょう。

しかしイタリア海軍は「タラント空襲」と呼ばれる軍港への爆撃により、戦艦3隻を大破される大打撃を受けています。
海軍参謀長リカルディはドイツ軍の要請を拒否しますが、次第に行われるギリシャへの輸送やそれに伴う上陸作戦、そしてドイツ軍の圧力により作戦を承諾。これが「マタパン岬沖海戦」です。
ところがイギリスは雷撃機1機のみの損害に対し、イタリア海軍は重巡洋艦3、駆逐艦2隻沈没、戦艦1隻大破という大損害。
これ以降イタリア海軍はもっぱら本国付近で活動するようになり、少なくともこの段階では地中海の制海権を完全にイギリス海軍が掌握します。



 そんな中、4月6日にドイツ軍はユーゴスラビアへ進軍します。この作戦名は「懲罰作戦」。怒りのほどが伺えますね。
猛烈な爆撃によって各拠点は断絶。さらにフランス侵攻同様、空軍支援と陸軍のコンビネーションによって悪路をものともしない快進撃。

ただでさえ兵器で大きく劣っている上にろくな準備もできず、セルビア人とクロアチア人の対立を抱えたユーゴは、首都ベオグラードを10日ほどで陥落され降伏します。


ユーゴスラビアはその後、ドイツ・イタリア・ハンガリーなどによる傀儡政権・傀儡国家の樹立や併合を余儀なくされ、バラバラになってしまいます。


ただしこの際、秘密警察や民族浄化という厳しい占領政策に反発する形で、かの有名なチトー率いるユーゴスラビア人民解放軍が誕生しました。パルチザンと言った方が有名ですね(パルチザンは彼らだけではありませんが)。
彼らは連合軍の支援を受けながら枢軸国への抵抗を続け、後にユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立を果たします。

 さらに、ユーゴ侵攻と同時にドイツ軍はギリシャへの攻撃を開始します。
メタクサス・ラインに砲撃や爆撃といった苛烈な攻撃が加えられ、ある程度持ちこたえるなど健闘はしつつも、険しい山道を通って突然背後に現れたドイツ軍によって崩壊した左翼をはじめ、各所で瓦解。
さらにユーゴ南部を通過して進撃したドイツ軍によって重要なテッサロニキ港も戦闘無く陥落。

ギリシャ軍は英軍司令官ウィルソンの防衛線まで後退しますが、こちらにもユーゴの悪路を経由し側面からドイツ軍が攻撃を加えており、またテッサロニキからのドイツ軍も食い止めなければならない窮状です。
結局、いくつかの反撃も加えながらも撤退を繰り返し、連合軍はテルモピュレーまで撤退。英軍は完全な撤退を決断します。

 その後テルモピュレーを放棄、アテネに最終防衛陣地を、それもドイツ軍に突破・・・と、この戦いは撤退しようとするイギリス軍、そしてそれを食い止めようとするドイツ軍と
いう格好の繰り返しですね。

そして数々の足止めに支えられた結果、4月30日に連合軍約6万人の退避が完了。ギリシャ国王を含めた一部の兵はカイロに、大半はクレタ島へ脱出しました。

 これ以降ギリシャは厳しい占領政策の下、かなり激しいレジスタンス活動を行っていくこととなります。

またこの戦いでのギリシャ軍の精強さや勇敢さは広く知られ、ヒトラーも孤立し降伏したギリシャ軍捕虜を即時釈放せよという命令を出しているほどです。

 ちなみにこの戦いによってソ連侵攻作戦が延期され、冬将軍が猛威を振るう冬に作戦が行われた結果失敗に終わった、という話はよく聞かれます。
しかし実際には延期は春の氾濫のせいであるとか、
イギリス内閣官房でもソ連戦への影響はなくヒトラーがイタリアに責任を擦り付けただけだ、という指摘もあるという事は記載させていただきます。




 さて、ギリシャ本土では大勝したドイツ軍ですが、クレタ島では依然として多くの連合軍が残っています。先ほども言いましたが、ルーマニアの油田群が危険にさらされている以上ナチスドイツは安心できません。


ドイツはこのクレタ島を制圧するため、史上類を見ない大規模な空挺作戦「メルクール作戦」を計画します。

つまり、上陸部隊を伴わず、エアポーンのみでクレタ島の空港と首都を占領するという通常ではあり得ない作戦です。(「将軍の栄光」ではそうでもないですけど。)
これには地中海の制海権がイタリアではなくイギリスに握られているという事情があったようです。

 で
すがこの作戦は思うように進みません。まず空輸の為に大量の燃料等を輸送する必要がありますが、何度も言うようにバルカン半島は悪路です。その結果、作戦は予定から1ヶ月も遅れた5月半ばにずれ込んでしまいました。



作戦開始後も、事前の激しい爆撃にも関わらず空挺部隊は激しい抵抗に遭い、予想外の損害を被ります。

さらにイタリア海軍と共に行った海路による侵攻もイギリス軍に撃退され、強行着陸によって何とか空港の一つを奪取することができました。

しかし、これを皮切りに形勢が逆転します。

空軍は陸上支援から海軍への攻撃に移り、イギリス海軍は次々に撃破。陸海ともにドイツ軍が支配権を握りました。

最終的にイギリス軍司令部は撤退を決定し、空爆の中多大な損害を受けながらも撤退を完了。クレタ島はドイツ軍に占領され、とうとう東欧から連合側勢力は一掃されてしまいました。


 結果だけ見ればドイツ軍の勝利ですが、あまりにも空挺部隊の損害が大きかったことから、ヒトラーはこれ以降このような大規模な空挺作戦は行いませんでした。

反対に、連合軍ではこれを教訓に空挺部隊の育成に力を入れ、かの有名なノルマンディー上陸作戦等で活躍します。
またイギリス海軍はこの戦いにより戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦6隻などを失う損害を受けており、先のマタパン岬沖海戦で得た地中海での優位は一気に揺らぐ事となります。



 意外と長くなってしまいましたが、もう少しだけお付き合いください。
 『バルカン半島の戦い』ステージではイタリア軍として行動しており、ドイツが絡んでいないので「ギリシャ・イタリア戦争」かな?と思いきや。
アルバニア全域がユーゴスラビアに支配されています
そして時期はイタリアがギリシャへ侵攻した1940年10月ではなく、マリータ作戦が行われた1941年5月。
さらにメタクサス・ラインのあった辺りはブルガリアが占領しており、ギリシャ軍の防衛線はウィルソン卿の防衛線に移動しています。(まあこれは難易度調整等々で仕方ないと思いますが。)

随分と変わってしまっていますが、要するにドイツ軍の動きをブルガリアとルーマニアが担当するといった感じでしょうか(だとするとかなり力不足ですけど)。しかもかなりユーゴが強い。ホントに準備できてなかったのかよ。

無理矢理説明するとするならば、イタリアはギリシャ・イタリア戦争で大敗。アルバニア全域を失い、ドイツ軍はアシカ作戦と対ソ連の準備にかかり切り。仕方なくイタリア軍とブルガリア・ルーマニア軍で作戦を実行する・・・みたいな感じですかね。

ですが道の悪さとイタリア海軍の弱さはそのまんま。史実通りイギリスにコテンパンにされるあたりはたまりませんね。
でもけっこうな確率でイタリア半島に上陸を許すのはさすがにどうかと。あとアテネの堅さはどうにかならなかったのか・・・いや文句じゃないですよ。



 忘れてたので追記。
『メルクール作戦』ではそもそも空港を一つも所持していない為、ふつーの上陸侵攻作戦となっています。
またクレタ島にある空港も1つだけ。
しかも史実では圧倒的優勢なドイツ軍がなぜか劣勢。それも難易度調整でやむを得ない事でしょうけど。
イタリア海軍がある程度は参戦してくれている点(だけ)は史実通りですね。

 今回は以上となります。
この戦いは結果としてはさほど大勢に影響のあるものではなかったので資料が少なく、
誤った部分、不明瞭な部分が多々あると思います。ご容赦ください。
それでは。

2017年4月8日土曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第四回・アシカ作戦)

 このコーナーも4回目。今回は枢軸シナリオ「アシカ作戦」、連合シナリオ「グレートブリテンの戦い」の元ネタ解説です。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。

「アシカ作戦」とはナチスドイツによるイギリス侵攻作戦の名前です。
この名前に聞き覚えがなくとも、こう言えばご存知の方も多いのではないでしょうか。
ゼーレーヴェ作戦」。某アニメで有名ですね。私は戦争が好きだの奴です。


 ベネルクス三国およびフランス侵攻を短期かつ軽微な損害で成し遂げ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスドイツでしたが、一方で不安も抱えていました。
先のフランス侵攻におけるナチス唯一の汚点「ダンケルクの奇跡」で脱出した数十万の連合国の兵士たちが居ましたね。その脱出先であるイギリスです。
イギリスは今や亡命した各国政府の拠り所、連合国の本拠地にして西欧最後の砦となっています。
逆に言えば、このイギリスを倒せば西欧に残るは中立のスペインとポルトガルくらいなもの。つまり敵なしという事です。

 当初は講和を期待していたヒトラーですが、バリバリの主戦派チャーチルによって講和が否決され、このアシカ作戦を計画しました。
当初の計画は最も近いイギリスの南東部に上陸、空挺部隊でそれを支援し北進、ロンドンを包囲するというものです。


 さて、連合国の本拠地とはいえダンケルクから撤退できたのは人員ばかりであり、殆どの兵器はそのままダンケルクに取り残されてしまいました。
そのためイギリス本土の陸軍はかなり弱体化しており、ドイツ軍の上陸に備えてホーム・ガードと呼ばれる民兵を組織しているほどでした。

 しかし一方でイギリス海軍は世界最強クラス。侵略するためにドーバー海峡を渡ろうとすれば間違いなく妨害を受けるでしょう。
陸軍を運搬する船は無防備であり、軍船に狙われたらひとたまりもありませんので当然護衛する船が必要です。

あ、ちなみに。「将軍の栄光」では水上運搬中の陸軍ユニットが軍艦に向かって攻撃を仕掛ける場面も珍しくありませんが、当時艦船の砲は最低でも口径10㎝を超えるのに対し、戦車はナチスドイツが誇る後期の重戦車(タイガー戦車)ですら口径8.8cm。
砲身の長さも桁違いなので射程も威力もダンチですし、個人的には相手にならないと思います。

対するドイツ海軍はというと、元々大して強くない上にノルウェー侵攻作戦「ヴェーザー演習作戦」でかなりの損害を受けており、加えてドーバー海峡は浅すぎて頼みのUボートも活躍しづらい環境です。はっきり言って勝ち目はありません。

 海軍をやっつけるのは難しいならフランスの時のような奇襲ができないの?とも思いますが、ここでも補給の問題があります。
一旦は不意を衝いて本土上陸を成し遂げたとしても、後続の支援部隊が押し寄せたイギリス海軍に破壊されるのは目に見えています。
フランス侵攻の際は現地調達で賄いましたが、さすがにロンドン包囲しておいて現地調達のみというのは不可能でしょう。

 という訳で、アシカ作戦の前提には、
上陸の障害となるイギリス海軍と沿岸地域の敵を退け
かつ入ってこられないように海峡を封鎖する必要があり、
しかし海軍だけではそれを実現することはできず、
ゆえに航空機による応援が不可欠であり、
よって制空権の確保をする事がこの作戦の発動条件となりました。(赤字がヒトラーによって挙げられたアシカ作戦発動の前提です。)

 それらを満たすべく、空軍大佐ゲーリング指揮による制空権確保のための戦い、通称「バトル・オブ・ブリテン」が勃発しました。
バトル・オブ・ブリテンも興味深い戦いなのですが、生憎「将軍の栄光」では制空権などあってないようなものなので省略します。

かいつまむと、ドイツ優勢・イギリス粘る→ロンドンへの爆撃に方針転換→その隙に施設を修復してイギリス空軍復活、さらにドイツ戦闘機の航続距離の短さが露呈。→制空権確保失敗。
です。
航空支援なしに海軍が勝てるはずもなく、特に戦うことなく制海権も断念。
おまけにソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」が始動し、とてもイギリス侵攻どころでは無くなり、総統ヒトラーによってこの作戦の中止が決定されました。


 とまあ実現しなかった作戦なので、今回は「もしアシカ作戦が実行されていたら」という「IF」シナリオです。

 ですが、実は後の机上訓練でこの作戦は検討されています。
「制空権は確保できていないが、機雷でドーバー海峡は封鎖されている」という状態、すなわち前提条件を満たせていなかったのに決行した場合ですね。
元ナチスの将校も参加したこのシミュレーションですが、やはり上陸は上手く行ったものの機雷原を突破したイギリス海軍により補給が断絶し、ナチス軍は撤退しています。

 このゲームでは補給も制空権も関係ないので完全な再現は無理ですし、そもそもイギリス沿岸の敵が全然排除できてないとか、潜水艦がガンガン活躍できるとか・・・
けっこう史実と離れているステージではありますね。


 そして「グレートブリテンの戦い」は、このアシカ作戦が上手く行った後のステージでしょう。ロンドンがドイツの手に落ちています。それでも降伏しないイギリス。

北海にイギリス海軍がいる所を見ると救援に向かえなかったようですね。もしくは完全に制海権を取り戻しており、支援に向かっているという可能性も。
またプレイヤー含め、イギリス軍主力は北部に構えています。
前述のシミュレーションではイギリスは遅滞戦術を取り、ホーム・ガードが時間を稼いでいる間に正規軍を再編成、防衛ラインを築くという展開になっていたので、恐らくは再編成した部隊でしょう。

シナリオでも時間稼ぎ→主力が前線に復帰→反撃という流れなので、こちらはほぼ再現されているといえます。本当ならロンドンは落とされませんし、何より反撃のカギは何度も言った通り補給の断絶なのですがまあ良いでしょう。

 こんなところでしょうか。この作戦は枢軸ファンの方なら一度は成功を妄想するのではないかと思いますので、検証するサイト様も比較的多く存在します。僕の拙い説明で満足できない方は是非そちらにおいで下さいませ。
では。