2016年4月11日月曜日

プロイセンの歴史

どうも。
 皆さんは高校の頃、日本史と世界史のどちらを専攻しましたか?
僕は世界史でしたが、近代史ではドイツとプロイセンがごっちゃになっていました。
 近代になるとプロイセンという名前がやたらと出てくるようになり、プロイセンが今のドイツなのかな?と思ったらドイツがまた別に出てきてプロイセンは全く出てこなくなり、
結局別の国なのかすらよく理解しないままカリキュラムを終えました。

 当時はそのまま放置していましたが、最近勉強しなおしたので説明させて頂きたいと思います。


※注!今回結構長めです。あと例のごとく基本的にはWikipedia由来の知識なので、一応大筋は合ってる…と思いますが、細かい点まで鵜呑みにしないようにお願いします。


※基礎知識
「ドイツ」、「プロイセン」=それぞれ地方の名前。普通は国名を指すが、本来は「関東」や「近畿」のような地名に過ぎない。プロイセンとドイツは別の地域に存在する。


まず大まかな流れを説明します。
ドイツ騎士団プロイセン公国としてポーランド属国に→ポーランドから独立、ドイツ領邦の一つに→プロイセン王国となり、最大級の領邦に→神聖ローマ皇帝喪失
オーストリアと対立→勝利、ドイツ帝国成立→ドイツ帝国滅亡とともに滅亡
以上が大きな流れとなります。順に見ていきましょう。


 プロイセンの前身は、ドイツ騎士団という騎士団です。騎士団というとRPGのような誇りと自由を重んじる軍事組織を思い浮かべますが、この頃(1100年代)の騎士団は違います。もちろん、軍事的性格はとても強いですが。

 この頃は十字軍という、イスラム勢力に奪われたローマ時代の頃の領土を取り戻す動きが活発になっていました。当然戦争が起きますから負傷者も大勢出ます。また聖地エルサレムに巡礼したいけど道中が危なくて不安、という信者もいました。

 そこで、病院の運営や護衛を行う組織が誕生し、教会の修道士がそれを運営していきました。これが騎士団の始まりです。ですので、騎士団という名前でも本当の騎士(≒貴族)ではなく修道士の集団です。
ドイツ騎士団はその名の通り、ドイツ人によるドイツ人の為の騎士団です。当然他の国でも宗教騎士団が生まれました。聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団が有名ですね。(名前かっこよすぎ。)


 さて、十字軍は失敗し、ドイツ騎士団もドイツ本国に戻りました。それからポーランドの貴族に依頼され、ヨーロッパで唯一キリスト教を信仰していないリトアニアの侵略に乗り出します。
騎士団はプロイセン地方を征服し、自らの領土とします。その後神聖ローマ皇帝にも認められ、プロイセン地方は正式に騎士団領となりました。これは1200年くらいの事です。

ドイツは神聖ローマ帝国が治める
その後騎士団はポーランドと一緒にモンゴル軍を防衛したり、リトアニアで誕生したリトアニア大公国と戦ったりしながら、領土をじわじわ広げていきます。
大体でいいんです。大体で

 ところが1400年より少し前、リトアニアがキリスト教に改宗し、ポーランドと婚姻関係を結んでポーランド・リトアニア王国(共和国)が誕生します。本来のキリスト教化という目的は達成されたわけですが、騎士団はこの国と対立を続けます。

ですがタンネンベルクの戦いで大打撃を受けた騎士団は敗北を重ね、最終的にポーランドの臣下に下りました。
そしてポーランド国王にプロイセン公国として認められます。
これは1500年ごろですね。ようやくプロイセンという国名が出てきました。あとこの先もプロイセンプロイセンと呼びますが、プロイセン地方自体はこの時ポーランドの領地になっています

 ポーランドの臣下になったプロイセンですが、それからしばらく経ってポーランドとスウェーデンが戦争になります。プロイセン公国は上手く立ち回り、ポーランドからの独立を勝ち取りました。

ですが単に独立国家になったわけではありません。プロイセン公国はブランデンブルク辺境伯というドイツの領主が跡継ぎになっていました(ブランデンブルク=プロイセンと呼びます)し、そもそも騎士団はドイツ人の集まりです。
当然というか、ブランデンブルク=プロイセンは神聖ローマ皇帝が治める、ドイツの数ある領邦(貴族がそれぞれに治める国みたいなもんです)の一つに戻りました。

しかし、プロイセン地方は相変わらずポーランド=リトアニア王国領であり、プロイセン国内は飛び地となっていました。これではとても不利なので、歴代の王はこれを何とか地続きにしようと国力回復と戦争に励みました。
緑色は「プロイセン『地方』」ではなく「プロイセン公国」


 時は移り1700年、神聖ローマ帝国は戦争に参加します。プロイセンはローマ皇帝の味方をする見返りとして、皇帝から王国の称号を貰いプロイセン王国になりました。
今の感覚からすると大した違いはないように思えますが、神聖ローマ帝国の中でも王国を名乗れる国はほとんどなかったそうで、大きな権威になったようです。
で、この時に首都となったのがベルリン。今のドイツの首都です。

また、王国になっても戦争はありました。有名な戦争が「オーストリア継承戦争」で、代々神聖ローマ皇帝を輩出するドイツ貴族の領邦、オーストリア大公国と戦争しました。ここでもプロイセンは快勝し、シュレジエン地方を獲得しました。


 プロイセン王国の歴史の中で特筆すべきはポーランド分割です。この時期になるとポーランドも落ちぶれており、後継者争いで非常に不安定な状態でした。そこを狙ったロシアとプロイセン、そしてオーストリアが、戦争などによってポーランドを三つに分けて自らの領土としたのです。
これでプロイセンは飛び地になっていた領土をくっつける事ができました。かつての大国ポーランドはここで一旦は姿を消してしまいます。



 さて、上り調子のプロイセンですが、1800年頃にフランス革命という大事件が起こります。超有名なナポレオンが登場し、ヨーロッパ全土に領土を広げていきました。
ナポレオンはドイツ全土を支配し、神聖ローマ帝国は消滅してしまいました。プロイセンも首都ベルリンを占領されたり、ポーランドを失ったりと憂き目にあいます。

 しかしナポレオンもロシアへの遠征で失敗してから対フランス連合国に負けが続き、島流し後の再起をかけたワーテルローの戦いを起こしますが、ここでプロイセンは勝利します。戦後の処理で新たな領土も獲得するなど、再びヨーロッパの大国に戻りました。 


 そしてここで重要なのが、ドイツ連邦の結成です。このドイツ連邦の中で、プロイセンはドイツ連邦の議長国オーストリアと並び最有力国の一つとなっていました。
ちなみにドイツ連邦とは、ナポレオンにより消えた神聖ローマ帝国の代わりに結成された、皇帝が行っていたドイツ全体に関わる議事を決定する為の連合です。
「連邦」という名ですが、ソビエト連邦のように強力な結びつきはありません。

 ドイツ連邦ができたとは言え、ドイツはたくさんの国や都市が乱立しておりバラバラでした。元々神聖ローマ皇帝の権力は大分昔に失われており、領邦の権力がとても強い状態だったのですが、皇帝が消えてしまった事で分裂が決定的になってしまったわけです。そこで、ドイツ人の間ではフランスやイギリスのような、「ドイツ人による」統一国家が望まれていました。

 その主導権をめぐり、有力国のプロイセンとオーストリアが対立します。
前述の「ドイツ人による」という点が問題で、他民族国家オーストリアの処遇についてドイツ中が紛糾したのです。

結局話し合いでは解決できず、プロイセンとオーストリアの対立はとうとう戦争に発展してしまいます。この普墺戦争ではプロイセン側の大勝利に終わり、これによりプロイセンがドイツ統一国家の主導権を握る事になります。また、オーストリアはドイツ統一国家から隔離され、オーストリアが議長を務めるドイツ連邦は解体されました。代わりに、プロイセンは、オーストリアを除いたほぼすべてのドイツ諸国が参加する北ドイツ連邦を結成しました。
この後オーストリアはハンガリーと結びつき、オーストリア=ハンガリー帝国としてドイツ諸国とは別の道を歩んでいきます。

 またこの時期活躍したのが、「鉄血宰相」として名高いビスマルクです。ビスマルクは言論弾圧と社会政策で国内を上手くコントロールしつつ、富国強兵策を進めました。
さらにフランスのナポレオン3世を煽り、普仏戦争を引き起こします。ここでもプロイセンは勝利。

もはやドイツで圧倒的な存在となったプロイセンは、ついにドイツ国民によるドイツの統一国家、ドイツ帝国の建国を宣言します。(正式名称はドイツ国)
このドイツ帝国は連邦国家ですが、ドイツ連邦や北ドイツ連邦のような緩やかな連合ではなく、ソ連のような強力な結びつきを持った一つの国です。
ドイツ皇帝にはプロイセン王が就任し、帝国の初代宰相(首相)にもビスマルクが就きました。
実際はもっとグチャグチャです


 という具合に皇帝・宰相がプロイセン王国から選ばれ、まるでプロイセンがドイツ諸侯を吸収したかのように見えます。
しかし実際には、国民は「プロイセン王国民」ではなく「ドイツ帝国民」と自覚するようになり、王ですら「プロイセン王」として振舞う事はほとんどなくなってしまいます。
その結果、プロイセンはドイツ帝国の一部として馴染んでいきました。


 その後、ドイツ帝国はドイツ革命によって滅亡。
同時にプロイセン王国自体も滅亡し、解体されてヴァイマル共和国プロイセン州となりました。
それでも有力な地方ではあり続けますが、第二次世界大戦後、連合国によりプロイセン州は廃止されました。

 今回はこれで終わりです。
それでは。

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