2024年12月31日火曜日

プラネットライカ・自分なりの解釈まとめ(第1回・登場人物たちの過去)

  どうも、お久しぶりです。

 今回はクリスマスが近かったということで、以前紹介したプラネットライカの考察・・・とまではいかない、自分なりの理解を備忘的にまとめたいと思います。

昔に書いた東脳のように、エンディングやら詳しくを書くことはしませんが、それでも当然ネタバレは注意です。

 できれば継続していきたいとは思うので、自分なりにハードルを課す意味で第一回と銘打ちました。自縄自縛。

 あ、あとぶっちゃけうろ覚えの部分も多いので、明らかなミスなどがあればご指摘をお願いいたします。


 それでは早速参りましょう。第一回は「登場人物たちの過去」です。
※ネタバレ注意(くどい)


◯クルーたちの過去

ライカ

まずは主人公、ライカですね。彼の生い立ちはなかなかしんどいです。
彼は幼い頃に父を亡くしており、母タニアの再婚相手ウラジミールおよびその連れ子、義兄セルゲイの家に身を寄せていました。
が、ウラジミールは酒に溺れ、二人に激しい暴力を振るう男でした。セルゲイもまたライカを見下し、当初から陰湿な苛めを行っていたようです。


まさに絵に描いたような不幸の中、ライカは亡き父が自分に向けた「この子は兵士、宇宙飛行士に向いている」という言葉と、その生前を伝える母の言葉を支えに努力を重ねます。

やがてその一家も死別・離散し、ライカひとりが残されます。それでも彼は宇宙飛行士という夢を叶え、いよいよ火星調査の任務に臨もうとしていた、というのが彼の過去です。…表面上の。

タトラ―隊長

次にタトラー。調査隊の隊長です。
クルーの中でも彼の過去は大部分が省略されていますが、舞台の都合上、トラウマに関わる部分は若干描かれています。

彼のトラウマはその青年時代。
隊長は士官学校時代、クロエという年の離れた少女と親交があったようです。
それがどういった関わりかはさておき、彼女は交通事故でこの世を去ってしまいました。
そのことは未だに彼のトラウマであり、イーブルマインドによって掘り返されたクロエの幻影は、劇中では得体の知れない意思の依代となります。

エイプリル

お次はヒロインのエイプリル。

彼女の場合、そのトラウマは何かの事件ではありません。
母親という存在そのものです。

彼女の母親は、エイプリルを非常に手厚く育てました。ですから彼女も憎んでいるような素振りは見えませんが、その過保護さが彼女にとっては息苦しく感じられていたようです。いわゆる過干渉の毒親というやつですね。

しかも。その過干渉は、エイプリルを我が子ではなく自身の分身とみなしていたためであった(とエイプリルは感じていた)というのです。
要するに、自分がなりたかったものや体験したかったことをエイプリルに押し付け、彼女が思い通りに動くよう支配していたということでしょう。
ステージママと例えればイメージしやすいでしょうか(古い)。

イーブルマインドの影響下では、謎の声が彼女に語り掛け、エイプリルが操られるように歩き回る様子が頻繁に見られます。
幼い頃の記憶が呼び起こされ、操り人形になっているということなのでしょうか。

ヌーン

クルーのトリは機関士ヌーン。
彼の父親は家庭内暴力を振るう男だったようです。セリフでは火かき棒を使うことすら日常的だった模様。
それだけでもトラウマもんですが、ある日、それに耐えかねたヌーンの母親が父親を殺めた上、ヌーンに「自分は悪くない」「お前は私が死ぬほうが良かったのか」と迫ったことで、彼の心に母親への強い依存心と恐怖が植え付けられました。
ちなみにその後母親は刑務所に送られ、獄死したようです。

三人の中で最も直接的なトラウマですから、イーブルマインドの影響が最も強いのも当然かもしれませんね。
早々に失踪し、そのトラウマを色濃く反映した「街」を作るなど、序盤の展開は基本的に彼に関連して起こっています。

◯火星で出会う人々の過去

エレミヤ

では、調査隊以外の登場人物についてもちょっと触れていきましょう。
ゲームの目的となる五つの預言を残したとされる罪人です。
再確認ですが、その預言は終末と再生の預言です。キーとなるのは「双子」「(終末を生き抜く)完全なる善」「完全なる悪」(これもまた記述できたら良いなと思います)。
火星がまだ刑務所として機能していた頃のお話ですから、当然大昔の出来事です。

元ネタは言うまでもなく、預言者エレミヤでしょう。エルサレム滅亡の預言を布教したとされる人物です。

ガリル大佐

10年前の先遣隊のリーダーにして、本作のラスボスです。
火星調査の過程でエレミヤの預言の存在に気付き、悪を蔓延させた上でそれらを集める『完全なる悪(黒い騎士)』を用意しつつ、自らが『完全なる善』となるべく暗躍していました。
火星に終末や預言の噂が出回ったのも、人々がイーブルマインドに毒されておかしくなったのも、彼が原因です。
それまでは流刑者の生き残りが辛うじて生活しているだけの寂れた星だったとか。

メディスンマン(先遣隊の生き残り)

隊長ガリルが失踪して以来、コロニーの隅で暮らしてきたという先遣隊メンバーたち。

ですが、その様子が明らかに異常です。
自らを「メディスンマン一族」と名乗ったり、
周囲の人間のタマシイを抜いたり戻したりするまじない踊り(ドールダンス)を行っていたり、
自らの悪を浄化する「シークレットパワー」を秘めていたり、
インディアンもといネイティブアメリカンっぽくなっていたり、と、
これはこれで正気を失っている感じです。しかし現調査隊メンバーと同様、悪に憑かれておらず、話し掛けても悪が溜まりません。

ちなみにメンバーは3人。長老のホワイトイーグル、ノーブルロック、ユニバーサルマンです。
が、ユニバーサルマンはシークレットパワーを狙ったガリル大佐により殺害されました。ということはガリル失踪後に身に着けた能力なのでしょうか。

火星の住人たち

あらすじ説明でライカの多重人格に触れましたが、実は火星の人々は全員多重人格です。
というよりも、イーブルマインドに毒されたせいで、3つの悪が人格となるまで成長してしまった感じでしょうか。

整形屋フェイ

元はヘロデ達とつるむ悪徳流刑者でしたが、ガリルから渡された「ヴェロニカの布」を利用する整形屋を開いて、欲悪を蔓延させる片棒を担いでいます。
そして現在は、整形によって完璧な美貌を手に入れたという「鏡の精アマンダ」に仕えると称し、この世の悪を照らし出すという「審判の鏡」を作っています。

鏡のモチーフについても少しコメントすると、
鏡を見ると犬顔が映る=憎しみが湧く=悪が増幅される
ということのようです。そのため、整形によって顔を変えれば終末を乗り切れるとも考えているようですね。

ただ、作中のややこしい台詞を読んでいると、
「犬顔=原罪」「鏡=自分の悪を映し出すもの」「整形=悪を隠すこと」と解釈できそうです。
原罪はキリスト教のテーマですしね。あながち的外れでも無いんじゃないでしょうか。

元ネタはヴェロニカ(キリストが処刑される日、十字架を運ぶ坂の道中で彼の顔を拭いた女性。その布にはキリストの姿が浮かび上がるという奇跡が起き、聖骸布として祀られています)でしょう。
別人格の名前もそのものずばりヴェロニカですし。

なお、ヴィジュアル系以外の拠点であるナイトプラネットやサイコハウスの住人には特筆すべき過去はありません。(ブーマーズナイトやクロウドリームなど、それらしいアイテムはありますが、正直そこまで物語に絡むものではないと考え割愛)

酸素屋ヘロデ&リトル

おそらく元々刑務として行われていた酸素石の採掘を指揮することで、コロニーを仕切っている元悪徳流刑者のコンビです。

預言の「双子」と終末を恐れ、クリスマスの日に双子をさらって生き埋めにするという惨劇を引き起こした張本人でもあります。
具体的なタイミングは不明ですが、流刑地であった時代の出来事というので、地球化計画が始動する前のことなのではないでしょうか。

元ネタは言うまでもなくヘロデ王(キリストの出生を恐れ、幼い男子を処刑した王)でしょう。
リトルは不明。彼の別人格はリバーといいますので、もしかしたら小川関連の何かでしょうか。



 三人格の過去についても述べていきたいところですが、今回は少し長くなりましたので回を分けましょう。とりあえずこのくらいで。

 それでは。

2024年2月3日土曜日

フランス革命の流れ(最終回・統領政府設立まで)

 さて、フランス革命、ついに最終回。

 こっからはひじょ~にややこしいので、これまで以上にニュアンスで行きます。
詳細な説明となると知識的にも文章量的にもキャパオーバーなので、良ければ専門のサイトへどうぞ(責任放棄)。


 国民公会の構成は前回説明した通り、山岳派・ジロンド派・中間層でした。
そして最初に主導権を握ったのはジロンド派です。ただしそれは中間層が彼らについたからであって、単独過半数はどちらも取れていません。
ついでに言うと、ジロンド派はこの頃からジャコバンクラブを脱退していますので、ようやく「ジャコバン派」≒山岳派と呼べるようになります。


 さて、共和国となったフランスの目下の問題といえば、もちろんフランス革命戦争です。
ルイ16世の処刑により諸外国は一斉に警戒を強め、講話どころかイギリス、オランダ、スペイン、イタリアと次々に戦争へ突入します。これが第一回対仏大同盟ですね。

 ヴァルミーの戦いで一度は勢いに乗ったものの、長引く戦争はフランスに様々な問題を引き起こしていました。

 まずは商人の買い占め、物資不足、不換紙幣の信用低下による物価の高騰。
戦争の長期化による兵役満了・兵力不足、士気の低下、そして戦況の悪化。
徴兵や革命に反感を持った地方の反乱に、極めつけは最高位の指揮官デュムーリエ将軍の反乱未遂。

 それらの失態や国王裁判・立法への消極的姿勢から、(立法議会時代から支持を失いつつあった)議会でのジロンド派の立場は悪化し、中間層が山岳派についたことで形成は逆転します。

 ジロンド派も山岳派を攻撃し逮捕や暗殺さえしますが、決定打にはならず。ロベスピエールが促した民衆蜂起により議会は国民衛兵に囲まれ、ジロンド派議員は逮捕されてしまうのでした。
ただし、地方によってはジロンド派が強い地域もあり、分断は続きます。


 主導権を握った山岳派は、内閣はもちろんのこと、強い統制を敷くための「委員会」と呼ばれる組織で幅を利かせます。
行政権を有する「公安委員会」、警察権を有する「保安委員会」が有名です。

 彼らは、少し時系列は前後しますが、民衆の圧力を背景に彼らの求める立法、例えば買い占め禁止令や最高価格の法定、反革命容疑者の取り締まり強化などを行っていきました。

 そしてその中で、国民公会は「恐怖政治」の採択を宣言します。
平時の手続きや理念を逸脱して、「怪しい奴」の捕縛・処罰(処刑)、強権的政策を合法化した訳です。
戦時下という緊迫した状況を立て直すという名目なので、今でいう非常事態宣言のような感覚だったのでしょうか。

 イメージと違ったのですが、これは民衆が議会を包囲して要求したもので、むしろ彼らに求められたものだったようです。最初はね。


 恐怖政治の中、反革命容疑者の杜撰な処刑や食糧徴発が行われます。それはパリに留まらずフランス全土に及び、多くの人がギロチンにかけられていくのでした。

通常よりもかなり簡易な手続きでしたから、恐らくでっち上げや私怨によるものも相当数いたでしょう。
※ギロチンの犠牲になった有名な人物一覧
・マリー・アントワネット(言わずと知れた王妃)
・シャルロット・コルデー(上記の、山岳派を暗殺した女性。『暗殺の天使』という嘘のような異名で有名)
・ブリソー(ジロンド派の指導者)
・オルレアン公フィリップ2世(ルイ16世のいとこ。王権を狙う野心的な人物で、なおかつ三部会を要求した貴族たちの代表格)
・デムーラン(バスティーユ襲撃の引き金となったとされる人物)
・ダントン/エベール(山岳派の穏健派/過激派(後述)の代表格)
・ラヴォアジエ(超有名な質量保存法則の発見者)

 しかし一方で彼らの強権的な政策は少なくとも一定の成果はあったようで、物価高騰や食糧不足は改善し、人々の生活も落ち着きました。

 更に軍備・軍制の整備と、新兵であった義勇兵たちも経験を積んだこと、それから新戦術や才能主義(にならざるを得なかった)人事なども功を奏します。
ナポレオンを筆頭とした名将が活躍し、フランス軍はなんと対仏大同盟を敗走させたのでした。

 ということは、戦時体制である恐怖政治はもはや無用であるとも思えます。
ところがその緩みは、ジャコバン派の瓦解を意味しました。


 実は、ロベスピエールに忠実な人間の数はそう多くありませんでした。
かつての立法議会と同様に、ジャコバン派もまた穏健派・過激派に分かれていたのです。

 恐怖政治の中で行われた安易な処刑、そして敵対者への弾圧と処刑(自業自得な面もありましたが)は中間層はもちろん、ジャコバン派の内部にもかなりの反感を抱かせていました。

 ついでに言えば、戦時体制での経済政策も決して万能ではありません。
例えば最高価格令について言えば、軍需工場の賃金は平時よりも下がっていたそうですし、良品は闇市に流され粗悪品が流通していたとか。

 そんな訳で、ロベスピエールの内外での人気はだんだんと落ちていったようです。
総じて言えば国内が安定したことで、強権的なやり方への不満を感じる余裕ができてしまっていた、ということでしょうか。


 そして極めつけが、反革命容疑者の財産没収と貧困層への分配を試みたこと。
その対象になるかも知れないという(色んな意味でもっともな)恐れを抱いた議員たちは、軍隊を議場に引き込み、彼らを逮捕・処刑したのでした。
テルミドール(熱月)の反動」という世界史上でも一二を争うカッコイイ名前で知られるこの事件により、恐怖政治は終焉。

 以降、大体の制度は8月10日のクーデター以前に戻され、ジャコバン派は以前の敵対者と同じように弾圧・処刑されることとなります。


 一般的にはここまでがフランス革命だそうで。こっからは大まかな流れだけ羅列します。

 それから間もなく「共和国憲法」が制定され、制限選挙による議院の結成の後、2ヶ月ほどして「総裁政府」(内閣)が成立します。
これまでとは違う、権力分立による議院内閣制(=議院の同意の下でなければ内閣が存在できない)なのが特徴です。

 それからも物価高騰などによる民衆の暴動が起きますが、もはや基礎となる国民衛兵も指導者も無く、軍隊により呆気なく鎮圧されました。
以降、民衆がこれまでのような大きな役割を果たすことはなくなります。
結局、最後まで貧農に土地が分けられることはありませんでしたね。

 とは言え総裁政府内でも権力争いによるクーデターが度々起きるなど、まるで安定しませんでした。
やがて「ブリュメール(霧月)18日のクーデター」が勃発し、議会は軍隊に制圧され、政府は解散。三人の統領をトップとする「統領政府」が誕生しました。

 そして何を隠そうその一人が、戦功により絶大な人気を誇り、それ故に議会から疎まれていたナポレオン将軍。
彼は第一統領として権力を集め、独裁そしてナポレオン帝政を樹立するのですが…それはまた別のお話。


〇感想

 いやー、長かったですね。期間にしてたったの5年ほどとは信じられません。
色々はしょった部分や逆に詳細過ぎる部分があったと思いますが、勘弁してください。

 個人的には、調べる中で今の日本の基礎になった理念や制度が次々に出て来てけっこう面白かったです。

 最終的には悲劇的な結末に至ってしまってはいますが、それも一連の情勢がドミノ倒しのように派生した結果であり、「こうすれば防げた」と言い切れない、宿命・運命的なものを感じました。


 本説明ではルイ16世、ラ・ファイエット、ロベスピエールくらいしか人名を言及しませんでしたが、彼ら以外にも重要な役割を果たした人はまだまだたくさんいます。
ただ、彼らの行動や思想を説明し始めると余りにも複雑になるため割愛させて頂きました。

 よくこういった解説で「この人物は××派だから~」といった説明をされますが、少なくとも僕にはそんな簡単なまとめ方は不可能です。
知識不足もそうですが、あんまりザックリ語ってしまうと失礼な気がして。

 興味があれば、誰か一人に着目して調べるのも面白いでしょうね。当時の彼らの信念や野心や恐怖が伺えるかもしれません。


 また、フランス革命を「愚民の暴動」とする説明もよく見かけますが、ちょっとそれはどうかなーと思います。

 重要な役割を果たしていたのは確かですが、実の所これまで見たように、方向を決めていたのは貴族・ブルジョア・ジャコバン派でした。
中でもブルジョアは最終的に自らの目的(共和制かつ富の維持)、このことからフランス革命はブルジョア革命ともされているらしいです。

 まあ、私刑みたいなヒステリックな事件が多かったのも事実ですが。
情報も知識も経験も余裕も無い中ではやむを得ないとも思うものの、混乱というイメージそれ自体は間違ってはいません。

 でも、多分ですが、現代人でもちょっと間違えれば似たような行動に走ることは十分あり得るのではないでしょうか?流石に斬首はしないでしょうけどね。


 何はともあれ、今シリーズはこれにておしまいです。長々とお付き合い頂きありがとうございました。
それでは。

2024年1月20日土曜日

フランス革命の流れ(その3・ルイ16世の処刑まで)

 どうも。フランス革命、第三回です。
いよいよ貴族からブルジョアの手に主導権が移り始めましたね。


 さて、新たに成立した立法議会において、議員の中に強硬な開戦論を主張する人々が現れます。
それがジャコバン・クラブの主導メンバー、後にジロンド派と呼ばれる面々です。(指導者の名からブリソー派とも)

 なぜこんな時期に・・・と思ってしまいますが、何しろ人数が多いですからね。理由も様々だったでしょう。
 例えば、
・王が外国と通じていると睨み(事実ですが)、干渉を排除するため。
・諸外国から革命を守り抜くため。
・戦争を通じて革命をヨーロッパ全土に広げるため。
・戦争によって潤う業界の人間だったため。
・これが最もありそうですが、愛国心を煽り(あわよくば勝利し)支持を集め、同時にフイヤン派を攻撃するため。
あたりでしょうか。

 というのも、フイヤン派は割と戦争に消極的でした。それもそのはず、当時は不作と財政改革の破綻、情勢不安により物価が上がり続けていたからです。
そこへ争乱が起これば、また民衆が行動を起こしかねません。
しかし一方で、もし戦争で成果を出せれば議会への支持を取り戻せるかもしれません。また彼らの中には軍事を担う貴族もいましたから、権力拡大を目論んで賛成した人ももちろんいたでしょう。

 そして国王はというと、もし勝てば国王の権威を取り戻せますし、負ければ革命勢力が弾圧されるだけ。
どちらに転んでも得しかありません。言わずもがな戦争賛成です。

 結果として、戦争に消極的なフイヤン派に属する大臣をジロンド派が「弱腰」と非難し、国王もフイヤン派大臣を罷免してジロンド派に組閣を命じ、
そして市民も外国(&彼らと繋がる貴族達)への恐怖や敵対心からそれを支持し…
と、反目している勢力それぞれの意図の下、戦争ムードが高まっていきます。

ちなみに、山岳派(急進共和派)の代表格、ロベスピエールは以外にも戦争に批判的でした。
革命を安定させるのが先だというのと、
万一勝利できたとしても武勲を立てた将軍が実権を握ってしまう危険があるというのが主な主張です。
後の恐怖政治やナポレオンの事を考えると興味深いですね。


 そんなこんなで、議会はオーストリアへ宣戦布告しました。

 ですが上述の通り、軍事は貴族の領分。多くの貴族が亡命した上、保守派(指揮官)と共和派で内部分裂しているフランス軍は案の定の連敗。
ついでに王や王妃は外国と通じており、当然情報も流れていました。

 戦況悪化の影響で、ジロンド派・フイヤン派の間で何度か政権交代が起こる中、議会は「祖国は危機にあり」宣言を発します。
要するに、フランス全土に義勇兵(志願兵)を募った訳ですね。これを機に、フランス兵の士気は向上していきます。

 ですがその頃、物価高と生活苦、迫り来る敵国への恐怖、政治からの隔絶によって溜まった議会への不満、民衆の意に抗うように拒否権を行使しているルイ16世への怒りなどなどにより、パリ市内は既に暴力革命の寸前とも言える状況でした。

 更に折悪く、外国の将軍がこの上なく威圧的な脅しを(王妃に頼まれて)布告します。
しかもそれがフランスの専制君主制を擁護する内容だったため、ルイ16世は完全に「敵の手先」と認識されてしまいました。

 そこへ救国の使命感に燃える義勇兵が集まる環境が作られた訳です。


 そして間もなく武装蜂起が勃発。
パリ市庁舎は制圧され、「蜂起コミューン」と呼ばれる組織がパリ自治政府に取って代わります。
更にその未明、テュイルリー宮殿が襲撃される8月10日事件が発生しました。

 義勇兵を先頭にした民衆に対し、宮殿を守る国民衛兵は多くが寝返り貴族は退却、踏み止まったスイス傭兵たちは大半が戦死。
その激戦を讃えるライオン記念碑(王家の盾を庇う獅子の像)はかなり有名なので見たことがある方も多いかもしれません。

 それに屈した議会は、王権の停止=共和制の採用や普通選挙による新議会(国民公会)の結成を宣言。国王一家は幽閉される事となったのでした。
ちなみに司令官として転戦していたラ・ファイエットはパリへ進撃して武力鎮圧を試みますが、兵士の抵抗により断念。逆にパリから狙われる立場となり、国外へと亡命します。
彼はこれ以降フランス革命から姿を消しますが、苦境に遭いながらもナポレオン帝政崩壊まで生き抜きました。

 その後、一部廃止だった封建特権が全面廃止になったり、疑心暗鬼になった民衆やコミューンが反革命容疑者を投獄・虐殺したりしました。
またこれら一連の中で、大きな指導力や人気を見せたのが皆さんご存知ロベスピエールです。詳しくは割愛。


 そしてそれから約1月後、かの有名なヴァルミーの戦いが起こります。
実を言うとこれはメインで紹介しようと思っていたのですが、調べてみると正直大した戦いではありませんでした。
それまでは士気も低く裏切りや撤退のあったフランス軍が、正規軍相手に互角の砲撃戦を演じたというもので、手強いと思った(かどうかは知りませんが)プロイセン軍が突撃もせず撤退してしまったので兵数の割に死者はさほどでもありません。

 ただその後、フランス軍は逆にドイツの重要都市を陥落しており、単なるまぐれでもなかったようですね。


 またそれとほぼ同日に、(今より制限は多いものの)普通選挙により国民公会が結成されました。
もちろんフイヤン派(立憲君主派)は一掃され、ジロンド派、山岳派と大多数の中間層(通称平原派)に分かれました。
これまでの流れから、山岳派が大多数じゃないの?と思われるかもしれませんが、実際は極端な思想の候補者は当選しませんでした。
間接選挙であったこと、貧困層は日雇い仕事のために選挙に行かなかったことなどが主原因だったそうです。

 彼らはルイ16世の処刑について長い討議を行い、他国との内通の露呈、民衆の圧力などにより小差で死刑が可決します。

 こうして、フランス最初の立憲君主は断頭台に掛けられたのでした。


 話はこれでおしまいになってもおかしくなさそうな所ですが、戦争はまだ終わっていません。
それどころかいわゆる対仏大同盟との戦いへと拡大を続け、それに伴い革命も更なる展開を迎えるのでした。

 今回は短めですが、話の区切りが良いのでここでいったん締めさせて頂きます。
それでは。


2024年1月13日土曜日

フランス革命の流れ(その2・立法議会結成まで)

 どうも。フランス革命の備忘的記録、第二回です。


 前回のヴェルサイユ行進により、国王ルイ16世一家と国民議会はパリへと連れて来られていました。

 またこの頃から種々の改革が本格的に始まります。ひとつひとつ説明するほど重要でも簡単でもないので省略しますが、
すごーーく大雑把に言うと、
①旧慣習の廃止と理論的な立法(聖職者の公務員化・教会財産の没収、行政区分の策定など)
②国内の安定化(一部税の廃止、国有財産の売却や①の没収財産による財政問題への対処など)
といったところでしょうか。意外とマトモですね(失礼)。
またユダヤ人や有色人種、女性の人権についての議論も活発になり、これから先いくつかの法律が定められます。

 そして、同時に③経済的自由化という政策も進められていました。

良いことのように思えるかもしれませんが、労働者の団結・争議が禁止されるなど、あまり手放しで喜べるものではありません
「経済活動の自由」や「所有権の不可侵」に熱心なのは、当時すでに土地やお金を得ていた層なのです。

 他にも、革新的な政策は、やがて内乱にまで発展する「国内分断」という副作用も引き起こしてしまいます。


 それはさておき、この時期、議会内外で意見や立場によるいくつかのグループが生まれました。
それを象徴するのが、議員以外でも参加可能な政治クラブの存在です。最も有名なのが「ジャコバン・クラブ」ですね。
ちなみにジャコバン・クラブは特定の思想を掲げたものではありませんので、この時期の中心メンバーは後に言うジャコバン派とは異なります。

 議員以外の人はもちろん、議員であってもこういった団体に参加し、討論を行っていたようです。議会の一部ではないのですが、政党の原型のような存在だったみたいですね。

 では折角ですので、この頃の派閥をまとめてみましょう。


 まず大まかな主張として、君主制を維持するか廃止するか。

 前者のうち、従来通りの専制君主制を主張するのが守旧派とか王党派とか言われます。
一方で、憲法制定、旧制度の改革を目指したのが立憲君主派
革命に参加した貴族はたいていがこのグループに分類されると思います。もちろん貴族以外もいたでしょうが。

 なんとなく想像できると思いますが、この頃から反革命に転じる人も増えます。初期に革命を主導した層なのでややこしいですね。
代表的な人物はラ・ファイエット。

※なお、貴族でありながら旧来の身分制度に否定的な人々は自由主義(的)貴族とも呼ばれます。
ちなみに立憲君主制はフランス革命からおよそ100年前、1688年の名誉革命によりイギリスで確立されました。ついでに覚えておくと便利です。

 一方、廃止したいと考える人々は共和派と呼ばれます。
さらにその中でも、現在の地位をそのまま残したいと考える者と、より体制改革を望む者とで、穏健共和派、急進共和派と分かれていました。

 富裕層は身分制による制限や、貴族たちへ奪われていたお金の流れが無くなれば満足。
物価高騰に苦しむ庶民は生活が楽になるまで富の再分配をして欲しい。

というイメージです。かなり大雑把ですが。
貧しい人々は革命の恩恵をあまり(ほとんど?)受けず、貴族と妥協的な議会への失望などから、その分過激な急進共和派になったりしたようです。


 ではこの頃の世論はというと、これまで革命を主導してきた立憲君主派に近いものでした。

 ところがある時、それを一変させる大事件が勃発します。

 革命への危機感を募らせたルイ16世一家が、マリーアントワネット王妃の兄が治めるオーストリアへの亡命を企てます。
これが有名なヴァレンヌ逃亡事件ですね。
もちろん突発的に逃げた訳ではありません。国外の亡命貴族や他国の力を借りて国内を鎮圧しようとしたのです。

 しかし結果はご存知の通り失敗。これが明るみに出ると、当然世論はルイ16世の王位剥奪に傾きました。

 ジャコバン・クラブでも、立憲君主派(主流派)は共和主義者が勢いづいたクラブを脱退し、ラ・ファイエットらと合流、後にフイヤン・クラブと呼ばれる団体を結成します。
(ただし、これはあくまで政治クラブの話ですから議会の構成は変わりません。)

 議会でも、彼らは「国王は逃げたのではなく誘拐されたのだ」というあからさまな嘘で国王を擁護(というか市民を沈静化させようと)しました。


 しかし、もうひとつ大きな出来事が起こります。シャン・ド・マルスの虐殺です。

 これはヴァレンヌ事件の直後、王と立憲君主派の議会を変更するよう請願する5万ものデモ集団に向け、パリの国民衛兵が無警告で発砲、殺傷したという事件です。
デモ隊は(兵隊が現れるまでは)これまでの事件とは異なり非暴力的な行進でしたので、事件は大きく報じられました。
そして最悪な事に、衛兵隊の総司令官は以前述べた通り、立憲君主派の代表格であり、市民にも人気の高かったラ・ファイエットだったのです。

 もっとも威嚇射撃に驚いた民衆がパニックを起こしただけという可能性もあるそうですが、当時の人々にはそんなことを知る由もありません。
重要なのは、王家に加え、これまでの革命を主導してきたメンバーおよびパリ自治政府に対し、民衆が敵対し始めたということです。


 一方、ヴァレンヌ逃亡事件の報はオーストリアにも届いていました。
妹家族(フランス国王一家)の身を案じたオーストリア王は、プロイセン王国とのポーランド分割会議(この辺、プロイセンの歴史の記事に通じますね。懐かしい・・)の際、外交的圧力をかけるべく共同でピルニッツ宣言というものを出しました。

 簡単に言えば「フランス国王を自由にする為に軍事行動を起こす」という内容でしたが、実際は両国ともそんな準備は無く、脅しに過ぎなかったようです。

 しかし、他国の助力や内乱を画策していた亡命貴族はこれに乗じて「早く革命を止めないとお前たちを(他国が)攻め滅ぼすぞ!」と口撃します。
が、それで鎮静化する訳もなく。
むしろ危機感と諸外国への敵対心を煽られ、国内世論は過激さを増していきました。


 それを抑えるためかどうかはともあれ、この時期、ずっと準備されてきた憲法がようやく出来上がります。これが1791年憲法です。 

 内容としては前回記載した人権宣言の具体化ですが、君主制の存続、国王への行政権の付与が定められています。
そして何より、財産によって選挙権を区別する制限選挙が規定されるなど、貧困層を政治から切り離す内容でした。前述のフイヤン・クラブ派の意図が反映されているのが特徴ですね。


 それでも憲法は憲法ですし、内心はどうあれ国王も宣誓したので、国民議会はその役目を終えたことになります。「憲法制定」国民議会ですからね。

 そんなわけで議会は解散。代わりに憲法に規定された立法議会、正式名称「立法国民議会」が選挙によって結成されました。
規定により前議員は立候補できなかった為、ここで議会の構成員は全員変わります。

 主流派はまだ根強い地盤を持っている(もしくは選挙規定の関係で有利な)フイヤン派のメンバーが大半。
ただし、王政に不満を持っているジャコバン・クラブ(現在の主流は穏健共和派)も結構な数で在席しています。
ちなみにこのとき、議場において立憲君主派が右、急進共和派が左端に座ったことから、既存の体制に賛同する人を右翼、否定する人を左翼と呼ぶようになりました。どちらも死語ですけど。

 この後、落ち着いた時期をほんの数ヶ月だけ挟み、革命は更なる急展開を迎えることになるのでした。


 とりあえず、今回はここまでです。
それでは。

2024年1月8日月曜日

明けまして。

 どうも。新年早々大変な事件が起きていますね。

 検索の邪魔になってはいけないので直接言及はしませんが、とりあえず僕は無事ということだけお伝えしておこうかと。

 更新停止していたフランス革命の概要についてもあらかた書き終わったので少しずつ投下していきたいと思います。

 それでは、今年もよろしくお願いいたします。