どうも。フランス革命、第三回です。
いよいよ貴族からブルジョアの手に主導権が移り始めましたね。
さて、新たに成立した立法議会において、議員の中に強硬な開戦論を主張する人々が現れます。
それがジャコバン・クラブの主導メンバー、後にジロンド派と呼ばれる面々です。(指導者の名からブリソー派とも)
なぜこんな時期に・・・と思ってしまいますが、何しろ人数が多いですからね。理由も様々だったでしょう。
例えば、
・王が外国と通じていると睨み(事実ですが)、干渉を排除するため。
・諸外国から革命を守り抜くため。
・戦争を通じて革命をヨーロッパ全土に広げるため。
・戦争によって潤う業界の人間だったため。
・これが最もありそうですが、愛国心を煽り(あわよくば勝利し)支持を集め、同時にフイヤン派を攻撃するため。
あたりでしょうか。
というのも、フイヤン派は割と戦争に消極的でした。それもそのはず、当時は不作と財政改革の破綻、情勢不安により物価が上がり続けていたからです。
そこへ争乱が起これば、また民衆が行動を起こしかねません。
しかし一方で、もし戦争で成果を出せれば議会への支持を取り戻せるかもしれません。また彼らの中には軍事を担う貴族もいましたから、権力拡大を目論んで賛成した人ももちろんいたでしょう。
そして国王はというと、もし勝てば国王の権威を取り戻せますし、負ければ革命勢力が弾圧されるだけ。
どちらに転んでも得しかありません。言わずもがな戦争賛成です。
結果として、戦争に消極的なフイヤン派に属する大臣をジロンド派が「弱腰」と非難し、国王もフイヤン派大臣を罷免してジロンド派に組閣を命じ、
そして市民も外国(&彼らと繋がる貴族達)への恐怖や敵対心からそれを支持し…
と、反目している勢力それぞれの意図の下、戦争ムードが高まっていきます。
革命を安定させるのが先だというのと、
万一勝利できたとしても武勲を立てた将軍が実権を握ってしまう危険があるというのが主な主張です。
そんなこんなで、議会はオーストリアへ宣戦布告しました。
ですが上述の通り、軍事は貴族の領分。多くの貴族が亡命した上、保守派(指揮官)と共和派で内部分裂しているフランス軍は案の定の連敗。
ついでに王や王妃は外国と通じており、当然情報も流れていました。
戦況悪化の影響で、ジロンド派・フイヤン派の間で何度か政権交代が起こる中、議会は「祖国は危機にあり」宣言を発します。
要するに、フランス全土に義勇兵(志願兵)を募った訳ですね。これを機に、フランス兵の士気は向上していきます。
ですがその頃、物価高と生活苦、迫り来る敵国への恐怖、政治からの隔絶によって溜まった議会への不満、民衆の意に抗うように拒否権を行使しているルイ16世への怒りなどなどにより、パリ市内は既に暴力革命の寸前とも言える状況でした。
更に折悪く、外国の将軍がこの上なく威圧的な脅しを(王妃に頼まれて)布告します。
しかもそれがフランスの専制君主制を擁護する内容だったため、ルイ16世は完全に「敵の手先」と認識されてしまいました。
そこへ救国の使命感に燃える義勇兵が集まる環境が作られた訳です。
そして間もなく武装蜂起が勃発。
パリ市庁舎は制圧され、「蜂起コミューン」と呼ばれる組織がパリ自治政府に取って代わります。
更にその未明、テュイルリー宮殿が襲撃される8月10日事件が発生しました。
義勇兵を先頭にした民衆に対し、宮殿を守る国民衛兵は多くが寝返り貴族は退却、踏み止まったスイス傭兵たちは大半が戦死。
その激戦を讃えるライオン記念碑(王家の盾を庇う獅子の像)はかなり有名なので見たことがある方も多いかもしれません。
それに屈した議会は、王権の停止=共和制の採用や普通選挙による新議会(国民公会)の結成を宣言。国王一家は幽閉される事となったのでした。
ちなみに司令官として転戦していたラ・ファイエットはパリへ進撃して武力鎮圧を試みますが、兵士の抵抗により断念。逆にパリから狙われる立場となり、国外へと亡命します。
彼はこれ以降フランス革命から姿を消しますが、苦境に遭いながらもナポレオン帝政崩壊まで生き抜きました。
その後、一部廃止だった封建特権が全面廃止になったり、疑心暗鬼になった民衆やコミューンが反革命容疑者を投獄・虐殺したりしました。
またこれら一連の中で、大きな指導力や人気を見せたのが皆さんご存知ロベスピエールです。詳しくは割愛。
そしてそれから約1月後、かの有名なヴァルミーの戦いが起こります。
実を言うとこれはメインで紹介しようと思っていたのですが、調べてみると正直大した戦いではありませんでした。
それまでは士気も低く裏切りや撤退のあったフランス軍が、正規軍相手に互角の砲撃戦を演じたというもので、手強いと思った(かどうかは知りませんが)プロイセン軍が突撃もせず撤退してしまったので兵数の割に死者はさほどでもありません。
ただその後、フランス軍は逆にドイツの重要都市を陥落しており、単なるまぐれでもなかったようですね。
またそれとほぼ同日に、(今より制限は多いものの)普通選挙により国民公会が結成されました。
もちろんフイヤン派(立憲君主派)は一掃され、ジロンド派、山岳派と大多数の中間層(通称平原派)に分かれました。
これまでの流れから、山岳派が大多数じゃないの?と思われるかもしれませんが、実際は極端な思想の候補者は当選しませんでした。
間接選挙であったこと、貧困層は日雇い仕事のために選挙に行かなかったことなどが主原因だったそうです。
彼らはルイ16世の処刑について長い討議を行い、他国との内通の露呈、民衆の圧力などにより小差で死刑が可決します。
こうして、フランス最初の立憲君主は断頭台に掛けられたのでした。
話はこれでおしまいになってもおかしくなさそうな所ですが、戦争はまだ終わっていません。
それどころかいわゆる対仏大同盟との戦いへと拡大を続け、それに伴い革命も更なる展開を迎えるのでした。
今回は短めですが、話の区切りが良いのでここでいったん締めさせて頂きます。
それでは。