どうも。今度はパレスチナ問題について少し調べたいと思ったので、忘れないようにブログに上げておこうと思います。この問題はいろんなサイトで分かりやすい解説があるので、皆さんが真剣に勉強したいと思うならそちらをお勧めします。
まず、皆さんパレスチナという地名をご存知の事と思います。ここに、紀元前10世紀にユダヤ人(イスラエル人、ヘブライ人とも言います)の王国、イスラエル(ヘブライ)王国が誕生します。
ユダヤ人はユダヤ教を信奉していますので、このイスラエル王国の首都エルサレムはユダヤ教の聖地となりました。またキリストが処刑され復活したとされるのも、ムハンマドが空を飛んで信託を受けたとされるのもこのエルサレムです。まあ3つとも同じ神を信奉するので当然といえば当然ですね。
それはさておき、イスラエル王国滅亡後、パレスチナはローマ帝国ユダヤ属州となります。しかし反乱を起こしたためエルサレムは弾圧を受け、ユダヤ人はヨーロッパ各地に散っていきます。もちろん残ったユダヤ人もいましたが。
さらにローマ帝国が滅亡すると、今度はイスラム勢力がパレスチナを支配します。十字軍で若干ゴタゴタしたものの、20世紀初頭までずっとパレスチナはイスラム教徒のアラブ人が住んでいました。(ちなみにアラブ人というのはアラブ地域に住み、アラビア語を話す人の総称です。アラブ地域とはパレスチナ周辺の西アジアや、アラビア半島(アフリカのすぐ東にある半島です。上の地図参照)の他、北アフリカなどです。)
それはさておき、イスラエル王国滅亡後、パレスチナはローマ帝国ユダヤ属州となります。しかし反乱を起こしたためエルサレムは弾圧を受け、ユダヤ人はヨーロッパ各地に散っていきます。もちろん残ったユダヤ人もいましたが。
これ以降、ユダヤ人は「キリスト殺し」と各地で迫害されながらも、高利貸しなどで富を蓄えます。
さらにローマ帝国が滅亡すると、今度はイスラム勢力がパレスチナを支配します。十字軍で若干ゴタゴタしたものの、20世紀初頭までずっとパレスチナはイスラム教徒のアラブ人が住んでいました。(ちなみにアラブ人というのはアラブ地域に住み、アラビア語を話す人の総称です。アラブ地域とはパレスチナ周辺の西アジアや、アラビア半島(アフリカのすぐ東にある半島です。上の地図参照)の他、北アフリカなどです。)
このアラブ人ですが、パレスチナに住んでいたアラブ人に限ってはパレスチナ人とも呼ばれます。
時は移ろい第一次世界大戦時。パレスチナはオスマン帝国が支配していました。
オスマン帝国と敵対するイギリスは、オスマン帝国に住んでいたアラブ人に反乱を促します。で、見返りとしてオスマン帝国領でのアラブ人国家の独立、パレスチナへの居住を認めました。(フサイン=マクマホン協定)
一方、ユダヤ人財閥ロスチャイルド家の援助と引き換えに、パレスチナにユダヤ人の郷土を認めました。(バルフォア宣言)この頃ユダヤ人の間でパレスチナにユダヤ人国家を作る動き(シオニズム)があり、ユダヤ人にはとても喜ばしい宣言でした。
(さらにサイクス=ピコ条約というものも結んでいますが、割愛。)
これらは厳密には矛盾していないという意見もありますが、三つとも一見矛盾しているように見えるので、第一次世界大戦後発覚した際にはユダヤ人とアラブ人が反発しました。
ともかく、オスマン帝国は滅亡し、パレスチナはユダヤでもアラブでもなくイギリスの委任統治領となりました。それより少し前から、先ほどのバルフォア宣言を受けてパレスチナへのユダヤ移民が増加し、ユダヤ人はパレスチナに独自の閉鎖的なコミュニティを形成し始めます。
また移民が増えるにつれ、経済・産業・土地などの問題をめぐってユダヤ人とアラブ人の間で衝突が多くなります。
ユダヤ人の方が資金的にも影響力が強く、アラブ人はよそ者の言う事に従わざるを得ない状況だったためなおさらユダヤ人に対して反発が強まりました。
さらにこの移民はドイツでのナチス党の台頭で激増し、アラブ人の大規模反乱も起こるようになります。
一方ユダヤ人の中でも独立を目指すテロ組織が反アラブ運動、反英運動を起こすようになりました。
一方ユダヤ人の中でも独立を目指すテロ組織が反アラブ運動、反英運動を起こすようになりました。
イギリスもパレスチナの処遇についてユダヤ人、アラブ人と協議を行い、それぞれで領地を分けるという土地分割案を提案しますが折り合いがつかず、反英テロも過激になったことで戦後その処理を国連に任せる事にします。
しかし国連の案もやっぱりエルサレムを除いてアラブ人とユダヤ人の国を別々に建国する、すなわち土地分割案でした。それだけではなく、これは人口比で見ればユダヤ人に圧倒的に有利な分割でした。
これには在米ユダヤ人の組織票を狙ったトルーマン米大統領の強力な後押しがあったそうです。
ともかく賛成多数でこの分割案は可決され、1948年、イスラエルの建国宣言がなされました。これにより、多くのアラブ人が虐殺や脅迫などにより他の地域に転居することを余儀なくされます。これがパレスチナ難民です。
ちなみに、パレスチナ周辺のアラブ諸国に住んでいたユダヤ人にも似たような事が起きたそうです。
問題はこれで終わりません。パレスチナは決議に反発したアラブ人との内戦状態に陥り、しかもエジプトを筆頭としたアラブ諸国がイスラエルの建国を認めずパレスチナに進軍します。これが第一次中東戦争です。
しかしこれはまさかのイスラエル勝利。背景には列強の支援があったそうですが、それはさておき国土の80パーセントがイスラエルの国土となってしまいます。残りの20パーセントはアラブ諸国が占領し、パレスチナのアラブ人(これから先はパレスチナ人と書きます)用の領土は消滅してしまいました。これでパレスチナ難民は激増します。
また、アラブ諸国が占領した土地の一部が、かの有名なガザ地区です。
住み処をイスラエルに占領されたパレスチナ人は周辺アラブ諸国、特にガザ地区とヨルダン川西岸地区に逃れます。
その後、エジプトとの間で第二次中東戦争が起こります。これはあまり重要でないので割愛。
この第二次中東戦争後、パレスチナ人による国を作ろうとする組織パレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルとアラブ人の対立はますます高まる事になります。
重要なのが第三次中東戦争です。
イスラエルは周辺のアラブ諸国に対して侵略を開始します。奇襲で空港を破壊されたアラブ諸国は制空権を失い、イスラエルはパレスチナ全土、そしてさらにエジプト、シリア、ヨルダンから土地を奪い取ってしまいました。
もっともこの戦争のせいでイスラエルは国際的な信用を失い、国連からはこの領土拡大を承認されませんでした。
要するに国境はすぐ上の画像と変化なしという事ですね。
それでもパレスチナ全土と周辺地域をイスラエルが実効支配したことで、さらにパレスチナ難民が激増することになります。
またこの一次~三次までの中東戦争により、イスラエルは完全に軍事的優位を示しました。
第三次中東戦争以降、しばらくパレスチナとエジプトの間で散発的な衝突が繰り返されますが、ついにエジプトとシリアが反撃に出ます。これが第四次中東戦争です。
今度はアラブ側からの奇襲と、これまでの大勝におごるイスラエルの油断も重なって、初めてイスラエルは苦戦を強いられます。
結局はイスラエルが勝利しましたが、イスラエルと互角に戦ったことによりアラブ諸国は対等な交渉を始めることができるようになりました。
中でもエジプトはイスラエルと和平合意を行い、エジプト領からの撤退と引き換えにイスラエルの建国を承認します。
この合意はアラブ諸国から非難され、アラブ諸国から仲間外れにされてしまいます。中心国のエジプトが抜けたアラブ諸国も反イスラエルの結束が緩むことになりました。
さらにアラブ諸国の一員イラクがイランとの戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ諸国もイスラエルよりそちらを優先したこともあり、これ以降は大規模な中東戦争は起こらなくなります。
おまけにPLOも指導者の交代に伴って反イスラエルよりパレスチナ人の自治組織としての面が次第に強くなり、組織だった戦闘より難民の中の過激派によるゲリラによる抵抗が主になっていきます。
という訳で、この第四次中東戦争が最後のイスラエル関連の大規模戦争となります。
(ただし、イスラエルによるPLOがいたレバノンへの侵攻を第五次中東戦争と呼ぶこともあります。)
また余談ですが、この第四次中東戦争は日本にも大きな影響を与えます。石油輸出国機構(OPEC )の中のアラブ諸国が原油価格を引き上げ、さらに続けざまに日本を含めて親イスラエル国への石油輸出を止めたのです。これが有名な第一次オイルショックです。
さて、時代は移り1990年代。イスラエルとPLOは相互承認を行い、イスラエル首相はパレスチナ自治政府の成立を認めます。
しかしこれはユダヤ人・パレスチナ人双方に不満を生みます。
詳しくは当事者にしかわかりませんが、おそらくユダヤ人はパレスチナ人の政府を認めたばかりか土地を差し出した事に納得できなかったのでしょう。
一方パレスチナ人にしても、パレスチナ全土はもともと自分たちの土地だという意識もありますし、認められた土地にもユダヤ人が大量にいますので、不満に思っても不思議はありません。
まあ要するに、双方が「自分が不当に譲歩させられた」という意識を持ってしまったということでしょうか。
結局、ユダヤの過激派がイスラエル首相を殺害し、パレスチナ側の自爆テロやイスラエル側の強引な入植が続くなどこれ以降対立が再び激化、平和には程遠い状態になりました。
特に自爆テロを防ぐ為にイスラエルが建設したヨルダン川西岸(大きい方のパレスチナ自治区)の壁は、両者の対立のシンボルとして有名です。
2006年、アメリカやロシア、国連、EUによる和平案が提示されます。ユダヤ人のパレスチナ自治区への入植停止、パレスチナ人のテロ停止というもので、これに沿ってガザ地区では入植地の撤去が行われました。
しかしヨルダン川西岸地区では入植が拡大されたばかりか、その後パレスチナの政権を強硬派がとった事で対立が再燃。イスラエルはガザ地区へ侵攻します。
このガザ紛争では多くの民間人が犠牲となったそうで、パレスチナ問題に関しては中東戦争以来の悲劇とされているようです。
この報復としてパレスチナ側もミサイルなどで攻撃し、イスラエルもさらに反撃。両者は対話と戦争を繰り返しながら今に至ります。
うん、長い。まあ僕の腕ではこれが限界です。この問題はユダヤ人対アラブ人だけでなく、それぞれの過激派対和平派、アメリカ対イスラムなど多くの外的要因に左右されていますのでどうしても複雑になります。
まあ簡単にまとめると、英米仏→イスラエルV.S.パレスチナ人←アラブ諸国となります。
何か間違いがあれば指摘をお願いします。
しかし国連の案もやっぱりエルサレムを除いてアラブ人とユダヤ人の国を別々に建国する、すなわち土地分割案でした。それだけではなく、これは人口比で見ればユダヤ人に圧倒的に有利な分割でした。
これには在米ユダヤ人の組織票を狙ったトルーマン米大統領の強力な後押しがあったそうです。
ともかく賛成多数でこの分割案は可決され、1948年、イスラエルの建国宣言がなされました。これにより、多くのアラブ人が虐殺や脅迫などにより他の地域に転居することを余儀なくされます。これがパレスチナ難民です。
ちなみに、パレスチナ周辺のアラブ諸国に住んでいたユダヤ人にも似たような事が起きたそうです。
問題はこれで終わりません。パレスチナは決議に反発したアラブ人との内戦状態に陥り、しかもエジプトを筆頭としたアラブ諸国がイスラエルの建国を認めずパレスチナに進軍します。これが第一次中東戦争です。
しかしこれはまさかのイスラエル勝利。背景には列強の支援があったそうですが、それはさておき国土の80パーセントがイスラエルの国土となってしまいます。残りの20パーセントはアラブ諸国が占領し、パレスチナのアラブ人(これから先はパレスチナ人と書きます)用の領土は消滅してしまいました。これでパレスチナ難民は激増します。
また、アラブ諸国が占領した土地の一部が、かの有名なガザ地区です。
住み処をイスラエルに占領されたパレスチナ人は周辺アラブ諸国、特にガザ地区とヨルダン川西岸地区に逃れます。
ガザ地区をヨルダン占領区と同じ色にしてしまいましたが、エジプト領です。 |
この第二次中東戦争後、パレスチナ人による国を作ろうとする組織パレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルとアラブ人の対立はますます高まる事になります。
重要なのが第三次中東戦争です。
イスラエルは周辺のアラブ諸国に対して侵略を開始します。奇襲で空港を破壊されたアラブ諸国は制空権を失い、イスラエルはパレスチナ全土、そしてさらにエジプト、シリア、ヨルダンから土地を奪い取ってしまいました。
もっともこの戦争のせいでイスラエルは国際的な信用を失い、国連からはこの領土拡大を承認されませんでした。
要するに国境はすぐ上の画像と変化なしという事ですね。
それでもパレスチナ全土と周辺地域をイスラエルが実効支配したことで、さらにパレスチナ難民が激増することになります。
またこの一次~三次までの中東戦争により、イスラエルは完全に軍事的優位を示しました。
第三次中東戦争以降、しばらくパレスチナとエジプトの間で散発的な衝突が繰り返されますが、ついにエジプトとシリアが反撃に出ます。これが第四次中東戦争です。
今度はアラブ側からの奇襲と、これまでの大勝におごるイスラエルの油断も重なって、初めてイスラエルは苦戦を強いられます。
結局はイスラエルが勝利しましたが、イスラエルと互角に戦ったことによりアラブ諸国は対等な交渉を始めることができるようになりました。
中でもエジプトはイスラエルと和平合意を行い、エジプト領からの撤退と引き換えにイスラエルの建国を承認します。
この合意はアラブ諸国から非難され、アラブ諸国から仲間外れにされてしまいます。中心国のエジプトが抜けたアラブ諸国も反イスラエルの結束が緩むことになりました。
さらにアラブ諸国の一員イラクがイランとの戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ諸国もイスラエルよりそちらを優先したこともあり、これ以降は大規模な中東戦争は起こらなくなります。
おまけにPLOも指導者の交代に伴って反イスラエルよりパレスチナ人の自治組織としての面が次第に強くなり、組織だった戦闘より難民の中の過激派によるゲリラによる抵抗が主になっていきます。
という訳で、この第四次中東戦争が最後のイスラエル関連の大規模戦争となります。
(ただし、イスラエルによるPLOがいたレバノンへの侵攻を第五次中東戦争と呼ぶこともあります。)
また余談ですが、この第四次中東戦争は日本にも大きな影響を与えます。石油輸出国機構(OPEC )の中のアラブ諸国が原油価格を引き上げ、さらに続けざまに日本を含めて親イスラエル国への石油輸出を止めたのです。これが有名な第一次オイルショックです。
さて、時代は移り1990年代。イスラエルとPLOは相互承認を行い、イスラエル首相はパレスチナ自治政府の成立を認めます。
緑の地域がパレスチナ自治政府。 |
詳しくは当事者にしかわかりませんが、おそらくユダヤ人はパレスチナ人の政府を認めたばかりか土地を差し出した事に納得できなかったのでしょう。
一方パレスチナ人にしても、パレスチナ全土はもともと自分たちの土地だという意識もありますし、認められた土地にもユダヤ人が大量にいますので、不満に思っても不思議はありません。
まあ要するに、双方が「自分が不当に譲歩させられた」という意識を持ってしまったということでしょうか。
結局、ユダヤの過激派がイスラエル首相を殺害し、パレスチナ側の自爆テロやイスラエル側の強引な入植が続くなどこれ以降対立が再び激化、平和には程遠い状態になりました。
特に自爆テロを防ぐ為にイスラエルが建設したヨルダン川西岸(大きい方のパレスチナ自治区)の壁は、両者の対立のシンボルとして有名です。
2006年、アメリカやロシア、国連、EUによる和平案が提示されます。ユダヤ人のパレスチナ自治区への入植停止、パレスチナ人のテロ停止というもので、これに沿ってガザ地区では入植地の撤去が行われました。
しかしヨルダン川西岸地区では入植が拡大されたばかりか、その後パレスチナの政権を強硬派がとった事で対立が再燃。イスラエルはガザ地区へ侵攻します。
このガザ紛争では多くの民間人が犠牲となったそうで、パレスチナ問題に関しては中東戦争以来の悲劇とされているようです。
この報復としてパレスチナ側もミサイルなどで攻撃し、イスラエルもさらに反撃。両者は対話と戦争を繰り返しながら今に至ります。
うん、長い。まあ僕の腕ではこれが限界です。この問題はユダヤ人対アラブ人だけでなく、それぞれの過激派対和平派、アメリカ対イスラムなど多くの外的要因に左右されていますのでどうしても複雑になります。
まあ簡単にまとめると、英米仏→イスラエルV.S.パレスチナ人←アラブ諸国となります。
何か間違いがあれば指摘をお願いします。
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