2017年3月31日金曜日

春のご挨拶。

どうも。今年度も今日で終わりですね。皆様方の中には、新たな境遇に身を置くという不安をお持ちの方も多いかと存じます。
その不安を解消する事はできませんが、このブログを見て頂きそのお心を軽くする事ができれば大変嬉しく思います。
もちろんそうでない方も大歓迎ですので、これからもどうかこのブログをほんの少しでも気にかけてやって下さい。

このブログも始めてはや2年半。今やすっかり「将軍の栄光」攻略サイトとなっております。
いい加減それ一本に頼り切りというのも心もとないのでそれ以外の記事も書きたいのですが、いかんせん私生活で面白い事が中々無いもので。取りあえずこうして節目節目のご挨拶を投稿する事から始めようかと思いました。
以上です。

2017年3月2日木曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第三回・フランス侵攻)

 どうも。
長らく放置していたこのコーナー。二回で終わりと思った方もいらっしゃるかもしれませんね。将軍の栄光の攻略がまたしても詰まったので、これでお茶を濁したいと思います。

 今回はナチスドイツのフランス侵攻ですね。将軍の栄光での作戦は、
枢軸側「黄計画」「マジノ線」、連合側「ダンケルクの戦い」となります。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 さて、前々回…と言っても覚えてらっしゃらないでしょうが、
ポーランド侵攻後、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告を行いながらもしばらくの間陸上戦争が行われなかった、と説明しました。
その間ノルウェーが占領されたりはしたものの、英仏・独のしばらくの間の平和があったわけです。それを破ったのが、今回のナチスドイツによるフランス侵攻です。

 そもそも、イギリスが海軍大国であるように、フランスは伝統的に陸軍大国です。
急激に機械化・軍事化を進めたドイツに比べ劣る点は否めませんが、
それでも豊富な国力と広い国土を要するフランスに対し、これまでのような短期決戦は不可能であるように思えました。

 さらにフランスは、ドイツとの国境に強大な要塞を建設していたのです。
それが悪名高いマジノ線
今では「高いコストで低い効果」の代名詞として使われているほど評価の低い要塞群です。

とは言えこのマジノ線、要塞同士を繋げた長大かつ堅固な防衛ラインでした。
将軍の栄光の「マジノ線」ではシステムの都合上ユニットの固まりになっていましたが、もちろん実際は歩兵で運用されます。

これに正面からぶつかれば多数の損害が出てしまうのは明らかです。しかし見ての通りフランス国境にその切れ目はありません。
唯一切れ目のあるオランダ・ベルギー・ルクセンブルク(この三国をまとめてベネルクス三国と言います。)国境は対独戦に消極的な英仏に見切りをつけ、連合国に参加せず中立を宣言していますので、まともに戦おうとすればどうしてもマジノ線を突破しなければならないわけです。

しかしドイツはそれでも短期でフランスを打ち倒す作戦を計画していました。

ちなみになぜナチスが執拗に短期決戦に拘るのかというと、国力の不利と資源的な問題から、長期戦になればなるほど不利だからです。

 その作戦、「黄作戦(黄色計画)」と呼ばれる作戦は、以下のようなものです。
なお、この「黄作戦」はフランス侵攻作戦における第一段階の作戦名です。
この作戦、実は「シュリーフェン・プラン」というWW1で失敗した作戦の焼き直しです。
…はい。「中立なんて関係ねえよ!」とベネルクスを侵攻(進行)しフランスに攻め入る作戦です。
今はもちろん、当時も中立国に攻め入るなどというのは暴挙と言っても過言ではありません。敵対しません!と言っている国に対し、自分に味方しないなら敵だとばかりに攻撃するのですから。(当時、既に侵略戦争は国際連盟等で制裁の対象となっていました。)

 ところが、この作戦の機密書類を乗せた飛行機が、当のベルギーに不時着してしまいました。相手にばれた作戦ほど無意味なものはありません。
そこで新たに選ばれたのがマンシュタイン計画と呼ばれる、マンシュタインの作戦にグデーリアンの意見を加えた作戦です。
まずC軍集団はマジノ線の防衛部隊を引き付けておきます。
次に主力のB軍集団は普通に進軍し、当初の予定通りベネルクスを通ってフランスへ進みます。
以前のシュリーフェンプランを踏襲する形であり、これが敵の主力に違いないと考えたフランスを主とする連合軍はベルギー平原にほぼ全軍を固めました。

 しかしその間に、もう一つの主力であるA軍集団アルデンヌの森林地帯を通ってフランスに侵攻します。
図を見て頂ければ分かると思いますが、連合軍主力の下を抜ける形になります。いわゆる奇襲ですね。

 あまりにも奇抜な作戦だった為参謀長からは却下されていましたが、軍の機密漏洩事件など、紆余曲折あって結局これが採用されました。
というか作戦の段階ではA軍集団は単にB軍集団の支援でしかなく、グデーリアン・ロンメル等の装甲部隊が命令無視して強引にこの計画を遂行したんですが。


 では実際どうだったかというと、連合軍がB軍集団と交戦している間に、A軍集団はまんまと手薄な敵の背後に入り込み、寡兵を蹴散らしながらフランスを猛進。
ここでかの有名な電撃戦が行われたわけです。先頭を行くのは電撃戦の考案者グデーリアン。将軍の栄光にも登場していますね。
電撃戦の説明は後ほど。

連合軍がA軍集団に気付いて引き返そうとするも、時すでに遅し。本土との補給路を遮断されてしまいました。
さらにはイギリスとの海峡、ドーバー海峡もA軍集団が占領。
連合軍はここダンケルクで完全に孤立してしまいます。


 ところが連合軍の一軍がフランスへの退路を開こうと闇雲に侵攻したところ、
たまたまロンメル師団の手薄な部分を横から奇襲する形になり、いくつかの部隊が壊滅します。
結局この反撃は失敗に終わりましたが、この反撃はナチスに衝撃を与えました。

これを大規模な反撃作戦の一部だと勘違いし、「予想外に秩序を保った連合軍」による機甲部隊への損害を恐れたとも、功績を求めたゲーリングの要求を飲んだともいわれますが、ともかく総統ヒトラーは陸軍に一時停止を命令
ゲーリング率いる空軍によってダンケルクの連合軍を壊滅させようとします。
しかし陸軍からの攻撃を免れた連合軍は、再び体勢を整える時間を稼ぐことができました。

 一方退路の確保に失敗したことで、連合軍はフランスへの撤退を諦めます。
すなわちダンケルクからのイギリスへの脱出を決意したわけです。

苛烈な爆撃・砲撃の中、軍船から果ては民間船すら含めた大量の船舶によって多くの兵がイギリスへ逃れていきます。もちろん大半の兵器はそのままに。
やっとドイツがダンケルクの防衛を突破した時、大部分の兵は既に撤退を完了できていました。これがダンケルクの奇跡と呼ばれるものです。

 しかし逆に言えば、フランス本土はもぬけの殻。
マジノ線から引き抜いた歩兵など、再編した軍団で抵抗しますが、政府は間もなく首都パリを無防備都市に指定。まあパリ限定の降伏と捉えて結構です。

首都を移したものの、和平派ペタン首相が率いる新政権樹立によって、両国は独仏休戦協定を締結。

結局、大国フランスはわずか1か月余りで降伏してしまいました。


 その後ペタン政権はナチスドイツの傀儡政権(これをヴィシー政権と呼びます)となり、フランスはファシズム国家へと変貌。ナチスドイツ支援し、資源的に支えていきます。

 一方シャルル・ド・ゴールやアンリ・ジローはじめとする主戦派はイギリスで自由フランスという亡命政府を組織し、今後も連合軍の一員として、フランスを取り戻すべく戦争に参加していく事になります。
余談ですがこのド・ゴールは後にフランス大統領となり、強い権力とリーダーシップでフランスの再建に努めます。
その強引なやり方に批判もありますが、彼の名前の付いた空港(シャルル・ド・ゴール空港)まであるという点に鑑みても、国民からの人気はかなりのもののようです。

 その後、フランス各地でレジスタンス活動が行われながらも、連合軍による再占領がなされるまでこの状態は続きます。




 おおまかな経過は以上となりますが、以下は少し詳しい説明です。
・なぜマジノ線をベルギー国境まで延ばさなかったのか?
・なぜ連合軍はアルデンヌへの注意を怠ったのか?
・電撃戦とは何か?
の3点についての内容となります。
思いの外長くなってしまったので、注意して下さい。

  • なぜマジノ線をベルギー国境まで延ばさなかったのか?

 これにはいくつかの説があります。

 まず、資金的問題を原因だとする説
あれだけ長大な国境線をカバーするマジノ線には多大な資金や時間が必要だったでしょう。
しかもドイツからしてみれば、損害を覚悟しさえすれば要塞の突破は別に不可能ではなく、マジノ線さえあれば安心だという訳ではありません。
といった理由から、国家予算との兼ね合いで、中立のベルギー国境まで延長する事を後回しにされたとしても、さほど不思議はありません。


 次に、特にベルギーとの関係悪化を恐れたとする説
実は、ベネルクスはあまり英仏とは仲が良くありません。
特にドイツと国境を接しているオランダは、できるだけ怒らせたくないという思いもあってかなりドイツ寄り。
フランスに最も近いベルギーですら親仏と親独で割れるような状態です。
ですので英仏はしきりにベネルクスを連合国に参加するよう、最悪でもドイツの味方にならないように働きかけていました。

 そんな中、ベルギー国境に要塞を建設したらどうなるか。実際はベネルクスを本気で守り切る気がないと白状するようなものではないでしょうか。

 ただ、あくまでウィキペディアの記述によると、ベルギー自身からマジノ線をベルギー国境まで延長するよう要望が何度もあったとされており、そうするとこの説は怪しくなります。
しかしウィキペディア以外ではそういった資料が見つからず、信憑性に欠ける記述である事を強く心に留めて頂きたく思います。


 最後に、ドイツの侵攻ルートをベネルクスに固定するためとする説
あえてベルギー国境を開放し、ナチスにWW1のシュリーフェンプランの踏襲を強いる事ができます。
一度失敗した作戦の状況を再現させれば、当然また失敗に終わる可能性も高まります。
さらに、進軍ルートが決まっていれば、最悪でも高い確率で真正面からのぶつかり合いに持ち込めます。
そうなれば英仏とドイツは数の上では互角なので、恐らく膠着状態に陥ります。
兵器の対戦車能力では英仏の方が上ですし、ドイツはWW1の影響や急激な拡張で国内も不安定、資源もまだ心もとない状況なので、英仏が有利になっていったと思われます。

 それだけではありません。先ほども言いましたが、ベネルクスは中立国であり、そこへの侵攻はタブーです。当然国際社会からの批判は強まります。
言い換えればマジノ線を迂回させ、ナチスドイツの孤立を深めることができるわけです。
(もっとも既に侵略戦争・ユダヤ人虐殺を行ったナチスにとって、これ以上批判されても蛙の面に水というやつでしょうか。)


 つまりマジノ線は、直接攻められても迂回されてもそれなりの意味があり、今回の侵攻に際しても(結果的に役には立ちませんでしたが)、一定の目的は果たしたという訳です。
また、国土に比べ兵力の少ないフランスにおいて、広い国境を比較的少ない兵力で防衛できるという意味でも、マジノ線は有用であったといえます。

もちろん、それらの効果に見合う費用であったかというのは全くの別問題で、その金を装備や兵器に回すべきだった、という批判は今でもされています。
ていうかそっちの方が圧倒的に多いです。広大なネットの海(死語)をあさってもマジノ線をべた褒めしている記述など見つかりませんでした。



さて次に。
  • なぜ連合軍はアルデンヌへの注意を怠ったのか?
 地図で見れば、アルデンヌ方面ががら空きな事にすぐ気付きます。にも関わらず連合軍はまんまとA軍集団の奇襲を許しています。
ここで連合軍に想像力が欠如していた、と断ずるのは簡単ですが、これはどちらかというとドイツ軍の方が常識外れというべきかな、と思います。

 アルデンヌは前述のとおり森林地帯です。
森林地帯は、「将軍の栄光」でもそうですが、ほとんどのユニットの移動力が極端に落ちます。大砲などはもってのほか。
さらに道が狭いために大軍が一気に通る事もできません。忘れがちですが、軍には非戦闘員が大勢随伴する必要があります。

という訳で、連合軍にとって、アルデンヌを通ってやって来る敵はそう多くないし、たとえ無理して大軍を通そうとすれば進軍の準備を整える前に対処できるはずであり、
そうしたリスクを冒してまでドイツ軍がアルデンヌを進軍してくるという可能性を心配するに及ばなかったのではないか、と考えられます。

 しかしドイツ軍は、戦車を中心として、それに随伴する歩兵、大砲、果ては補給などの支援部隊に至るまで、すべてが自動車やオートバイなどに乗った独特な装甲軍団を編成します。
これなら平地はもちろん、森林という悪路でも、比較的迅速に行軍できます。

あ、ちなみに。この時のドイツ軍の主力戦車は機動力に長けた軽戦車です。
その為マチルダⅡといった有名な中戦車には歯が立たず、航空機を狙うための高射砲で撃破したという逸話が残されているほどです。
しかし、脆弱な後方部隊にはこれで十分。連合軍の中戦車も補給を絶たれ、各個撃破と相成りました。

さらに驚くべきことに、ドイツ軍は補給を重視しませんでした。
ガソリンなどは現地調達にすることで、移動しなければならない兵の数を削減したわけです。
上手く行くのかと心配になりますが、なんとフランスの各地に設置されたガソリンスタンドが大いに役立ったと言われています。便利なのも考え物ですね。

 とまあ、アルデンヌからの突破はかなり常識外れであり、あまり連合軍を責めるのは気の毒かな、とも思いますが、ベルギーに集中させすぎた感はあります。
(機動力の高い機甲部隊ほか、部隊をみんな前線に送り、予備兵力をほとんど持たなかったのは「決定的なフランス側の失敗である」とまで言われています。(byWikipedia))
  • 電撃戦とは何か?
 まず、電撃戦を単に「電撃的に素早く進軍する事」と誤解しているケースをたまに見ることがあります。
まあ素早く進軍するのは合っていますが、決してそれだけではありません。

 例によって絵で説明させて頂きます。
ただし非常に簡略化しているので、場合によっては間違っている部分もあるかもしれません。
もし指摘があればお願い致します。
青い点が敵の支援部隊、星付きが敵の拠点、青線と橙線が敵と自軍の前線とします。
通常ならそのまま削り合いの塹壕戦になるところです。
しかし、電撃戦では、
このように、敵の前線の一部に兵力を集中。
爆撃(後述)で敵をかく乱・分散した後に突撃し、敵前線の後ろに侵入します。
突入に成功したら、後ろに展開して敵を分断・包囲したり、
無防備な敵後方の補給路や情報網を遮断し、拠点、あわよくばそのまま前線の司令部を攻め落とすという作戦です。

敵からしてみればあっという間に包囲されていたり、
拠点が次々と落とされて救援が全く追いつかず、
情報網が分断されたために敵の動向や命令の情報が錯綜したりと、混乱の極みに叩き落されるわけです。
 
 ただ単に一点突破と包囲・拠点制圧を組み合わせた単純な作戦に見えますが、WW1で主流となった塹壕を一挙に突破しうる革新的な戦術でした。


もちろんこの電撃戦にも欠点はあります。
進軍速度が相手の対処能力を超えていなければ、多くの部隊をわざわざ孤立させただけに終わってしまうという点です。
当然、敵が拠点の防衛体制を既に整えている場合、全くの無意味です。
(ですので、「将軍の栄光」では電撃戦は難しいと思います。大抵の拠点にしっかり兵が構えている上、常に味方の状況が分かっていますから。)

さらに、この電撃戦の目的はあくまで敵のかく乱・分断であり、物理的な損害を与える事ではない(というかできない)為、下手を打つと混乱から立ち直った損害の少ない敵によって猛烈な反撃を受ける可能性もあります。

 という訳で、電撃戦では敵に捕まらない程の進軍速度を保ち続ける事が必要とされます。
その為に、以下のような工夫がなされました。

・部隊の機械化
最も重要なポイントです。先ほど少し触れましたが。
WW1以来、戦車は歩兵の支援兵器というのが一般的な見方であり、連合国は主力の戦車部隊や完全な機甲部隊の編成にはほぼ無関心でした。
というのも、WW1の戦闘は塹壕戦、すなわち歩兵同士の削り合いがメインだったからです。
(シャルル・ド・ゴール等、一部の軍人は機動力の高い機甲部隊がこの塹壕戦の突破法であると考えていましたが、保守的な軍幹部はそれを容れませんでした。)

しかしドイツは戦車を主力として自動車やオートバイに乗った、複合兵科による装甲師団に力を入れていました。

 繰り返しにはなりますが、この機械化軍団の最大の利点はその機動力にあります。
いくら戦車軍団といえども支援が無ければ戦えません。つまり随伴部隊の進軍速度に合わせる必要があるという事です。
そこで部隊全体が戦車並みのスピードを出す事により、通常ではあり得ないスピードを出す事が可能になるのです。

特に戦車の特性について、グデーリアンは「最初の突破の後に引き続いてその機動を継続することが可能」としており、
素人意見ですが、これが将軍の栄光における「戦車ユニットは敵を撃破した際引き続き行動できる」という設定に繋がっているのではないか?と思います。


・航空機の活用
お分かりの事と思いますが、大砲等の砲兵は非常に遅いです。
そこで、大砲よりはるかに速い爆撃機を長距離砲の代わりに用いることで、進軍速度を大幅に高める事ができました。
(まあ大砲に自動車をくっつけて機動力を高めた突撃砲だの自走砲だのも開発され、部隊に含まれてはいますが。)


・指揮権限の委譲
通常では、当然全ての部隊は司令本部による指揮を受けます。
しかし、一々司令部による命令を待っていては進軍速度を出せません。そこで、電撃戦では前線指揮官に指揮権を委ね、迅速な判断・対処を可能にしました。
(上記の爆撃要請も、前線部隊が直接行います。それにより機を逃す事のない支援を行う事が出来ました。)



 その他、適切な地形の選択、目標の明確化、陸空や部隊同士の綿密な通信などなど。
電撃戦を成功させるには色々と慎重なシステム構築が必要だったようです。

 しかし、実は完全な電撃戦はこのフランス侵攻だけだと言われています。
(前回のポーランド侵攻ではワルシャワ包囲戦もあるように、敵内部への突入はなされていませんでした。)
 ともあれ、この電撃戦の華々しい成功を受け、機動戦、主力としての戦車の重要性を認識した各国は、機甲部隊の編成に力を入れる事になります。


 ああ、疲れた。単純なようで難解な内容なのでWikipedia漁りも時間がかかりました。
もっと分かりやすく書いてくれればいいのに