2018年10月19日金曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説 後編(第七回・ノルマンディー上陸作戦)

今回の重要な地名です。
どうも。
今回は前回に引き続き、「ノルマンディー上陸作戦」の元ネタ解説です。
めちゃくちゃ更新遅くなってすみません。「てめえ何のために前後編分けたんだこのウスノロが!」と言われると返す言葉もありません。すみません。


それはそうと。
前回は作戦の前段階というか、連合・ドイツ双方の状況をざっとではありますが説明したところで終わっていましたね。

 では、いよいよ作戦実行・・・の前に、予定ではどうだったかを非常に簡単ながらご説明しておきます。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。

シェルブールが位置する半島の名前はコタンタン半島と言います。(書き忘れ
連合軍は上陸地点を5つに分け、西部の「ユタ」・「オマハ」ビーチをアメリカ軍が、東部の「ゴールド」「ジュノー」「ソード」ビーチをイギリス軍(とカナダ軍)が担当します。
さらに上陸直後の動きですが、
アメリカ軍はコタンタン半島の先端にあるシェルブールを本土から分断・孤立させ、その港を奪取します。大きな港であるシェルブールは物資や人員を送るために活用できるため、できるだけ早い占領が求められました。
その後、フランス西岸を南下しながら港湾施設を占領します。

同様にイギリス軍は交通の要所カーンを占領し、アメリカ軍の側面を守るとともに揚陸や空軍施設の整備を行い、パリへの足掛かりを固めます。

こうして補給港と軍備を万全にしてから、アメリカ軍・イギリス軍ともにパリ方面のフランス東部へと進軍する予定でした。


 それじゃあ実際はどうだったか書いていきましょう。といっても、あんまり長く書いても読みづらいですし、下手するとスマホ数ページ分になりますし、何よりWikipediaを丸コピペしても大差ないような内容になりかねないので、こちらもあまり個々の戦闘には触れず大きな流れだけを書いていきたいと思います。
幸い有名な戦いですので調べようとすればいくらでも出てきますから詳しく知りたい方はそちらで(人任せ)。


 さて、悪天候のわずかな晴れ間、6月6日の未明から連合軍の作戦は開始します。
上陸部隊に先立ち、防御機能の低下を狙って艦艇からの砲撃や空爆、敵後方への空挺が行われました。
しかし、経験不足や対空砲火などにより思いのほか空挺部隊が広範囲に散らばってしまい、海やドイツ軍が作り出した沼で溺死してしまうものも多かったとか。
それでも午前6時頃から一斉に、しかも怒涛の如く押し寄せた連合軍の上陸部隊に対し、ドイツ側は5つの地点全てで上陸を許してしまいました。

その理由が、ドイツ側の防御態勢の混乱にあります。
まず、前回でも少し触れましたが、ドイツは悪天候がしばらく続くと考えていました。そのためロンメル将軍など幹部は休暇を取っていたり、そうでない上級指揮官も兵棋演習で前線を離れていたりと、完全に油断していたようです。
また、上記の空挺部隊も期せずしてこの混乱を助長したようで、広範囲にわたって降下した彼らからはその目標や兵力を特定することができなかったとされています。

加えて、ドイツ軍は元々「フォーティチュード作戦」(前回参照)によってカレー地方が目標だと考えていましたから、これが本格的な侵攻作戦かどうかを判断できず、さらには上陸が始まってからすらもこれが陽動作戦ではないかと考え、カレー地方から兵力を動かせないでいました。
おまけにこれらの混乱を事前の爆撃やレジスタンスによる連絡網の破壊が助長し、ドイツ軍から正確な判断を奪っていたのです。


という訳で、ドイツ側は予備戦力に頼ることなく、各海岸の拠点が各自で戦うしかないような状況だったようですね。
以上のような理由から、連合軍の被害は(予想よりは)軽微で済みました。

ここまでで、少し詳しい人であれば「あれ?」と思うかもしれません。
この上陸作戦で最も有名な「オマハ・ビーチ」は、死傷率が50%と非常に大きな被害を出したからです。
ここは高潮で水陸両用戦車や上陸舟艇が沈没したり、目標地点とは違う場所に上陸してしまったりした上に、いざ対面したドイツの防衛部隊はほとんど爆撃・砲撃の被害を受けていなかったのです。
さらに不運なことに、上陸のつい数日前に配置替えが行われており、予想よりもはるかに精強な部隊が防衛していました。
それら想定外の出来事によりアメリカ軍は多くの損害を出し、一時はオマハ・ビーチの放棄も考えられたほどだったといいますが、防御をかいくぐった部隊が内陸から陣地を掃討し、何とか上陸を達成しました。


 とまあ例外はあったものの被害を抑えながら上陸を成し遂げた連合軍でしたが、一方で制圧地域は全く作戦通りになっていませんでした。
例えば上述したようにカーンは上陸当日に占領している予定となっていたのですが、(夕方になってようやく)反撃を開始したドイツ装甲師団によって妨げられました。

ちなみにこの師団、本来なら上陸が始まったら陣地を確保される前に反撃する役割だったはずなんですが、実際にカーンへ向かったのは午後になってからです。
ではシェルブール・カーンを占領したのはいつかというと、シェルブールは6月末。カーンはなんと7月下旬までかかっています。


 それでは、いかにして連合軍はここから侵攻を進めていったか。
便宜上、西部のアメリカ軍・東部のイギリス軍に分けて説明していきます。

 まずはイギリス軍から。
ドイツ軍はベルリンに近いカーンをより重要視しており、主力をカーン方面に置いた他、ヨーロッパ各地から装甲師団を集め、必死の防衛を続けていました(カレーを除く)。

ドイツの装甲師団は機動的な反撃を行い、一つの丘を取ったり取られたりという激しい攻防戦が起こりました。
最も有名な戦車乗りの一人、ヴィットマン中尉率いる大隊が30輌以上の戦車を破壊した「ヴィレール・ボカージュの戦い」が起こったのもここを巡る争いの最中です。
これ以降、イギリス軍は積極的な行動を避けるようになり、その後の侵攻を遅らせる原因になったとか。

 しかし、ドイツ軍も決して楽な戦いではありませんでした。
まず爆撃とレジスタンスの活動で道路・鉄道網が破壊され、輸送が困難に。
連合軍の爆撃機に狙われるため、援軍は夜に紛れて自走するしかありません。
さらにようやく着いても補給が損害を受け、万全の状態で戦うことができません。
そのため一気に戦力を集めることはできなかったため、現状維持がやっとだったようです。
例えばノルマンディー内陸には装甲師団2師団が控えていましたが、カーンに到着したのは上陸してから1,2日経ってからという有様です。まあ命令が出るのも遅かったですが。

7月上旬、イギリス軍の攻撃により比較的脆弱な部分から防衛線が崩壊、ドイツ軍はカーン北側から退却し、ようやく事態が少し進展しました。


 ではアメリカ軍はというと、こちらも攻勢は停滞していました。
ユタ・オマハのアメリカ軍は、その間のドイツ軍を追い払い連結を済ませた後、シェルブール攻略へと向かったのですが、守備が固く失敗します。戦いが長引くことが予想されたため、コタンタン半島を先に横断し、シェルブールを完全に孤立させてから攻めることとしました。
これは成功。要塞化されたシェルブール周辺拠点は粘り強い抵抗を見せましたが、側面・正面からの攻撃と艦砲射撃を受け、ようやく降伏しました。
ただしその前に施設を破壊していたため、この港の利用はしばらく制限されてしまいます。


シェルブールを落としたことで、アメリカ軍は本格的に南のサン・ローという町の方へと進軍します。実はここも上陸当日には制圧する予定でした。
しかし、こちらの攻略も上手くはいきません。理由はこの地方の「ボカージュ」という地形にあります。
ボカージュとは・・・まあ生垣ですね。といっても畦畔林と訳すように背が高く、視線や射撃、戦車の通行を妨げるほど頑丈だそうです。
それが道や畑に沿って区切るように植えられているため両軍ともに戦車を活用することができず、アメリカ軍はボカージュのうちに潜む何重ものドイツ軍の拠点を一つずつ白兵戦で制圧する他無かったようです。
地道な戦闘の末、7月中旬にサン・ローはほぼ制圧されました。



 さて、ここまでは両軍ともにうんざりするような膠着状態ですが、いよいよ戦況が大きく連合軍に傾きます。

7月中旬、イギリス軍・カナダ軍はカーン周辺のドイツ軍に対し大々的な攻勢作戦を開始しました。
作戦そのものは失敗で、カーンを占領した代わりに大損害を被ってしまいました。

 しかし、この作戦にはもう一つの目的があったのです。
陽動、つまりはドイツ軍の主力をカーン方面に引き付け、サン・ロー方面が手薄になったところでアメリカ軍が突破する、というものですね。
思惑通りドイツ軍はサン・ロー方面から部隊を引き抜き、カーン方面の防御を固めてしまいます。

その隙を突き、アメリカ軍は7月25日に「コブラ作戦」を開始。
集中的な絨毯爆撃と数度に渡る攻撃でドイツ軍の防衛線は次第に各所で破綻し、分散。
アヴランシュの幹線道路まで到達したアメリカ軍はいよいよ用意していた装甲軍団を投入します。指揮官はご存知パットン将軍です。

パットン将軍は今までの停滞ムードを吹き飛ばすかのように爆走。ドイツ軍の残存戦力ではもはや食い止めることができず、瞬く間にブルターニュ地方の大半がアメリカ軍の手に落ちました。
いやー、すごいですね。もちろんこの間もカーン方面で英・加の攻撃は続いていて満足に対処できないというのもあるんですが、流石の猛進っぷりです。そりゃ映画化もされるわ。

それに対しドイツ軍は(ヒトラー総統の強い意向を受け)、パットン将軍の退路を断って孤立させんと予備の装甲戦力をかき集め反撃に出ましたが、事前に察知され爆撃を受けてあっさりと失敗します。
そして行動を開始してからわずか2週間足らずで、アメリカ軍は南のナント、東のル・マンへと進み、さらに北上してイギリス・カナダ軍との連絡を目前にしていました。

すなわち、カーン方面にいたノルマンディーのドイツ軍主力がまとめて包囲寸前の窮地に立たされたのです。



さらに狭まっていく退却路に、8月16日、西方軍司令のクルーゲ将軍はついに総統命令を却下して退却を決定します。

※元最高司令官のルントシュテット将軍は、対英米和平に傾いたことで7月頭に解任されています。
ちなみに、ロンメル将軍が爆撃を受けて重傷を負った7月中旬からは軍集団司令官も兼任しています。大変ですね。
さらにクルーゲ将軍もこの抗命の直後、ヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われて更迭、ベルリンへと向かう汽車の中で自殺します。後任はモーデル将軍。

一方連合軍ですが、パットン将軍は友軍と衝突する危険性から進軍を停止し、包囲を閉じるのはカナダ軍とポーランド軍が担当することになりました。

しかし、ドイツ軍も必死です。
装甲師団の激しい抵抗に進軍を妨げられ、ようやく配置に着いてもドイツ軍の反撃により退却路を開けられてしまったりと、包囲までにはかなりの日数を要しました。敢闘はしたもののやはり力不足だった感はありますね。
結局、進軍を開始したのは12日ですが、完全に包囲が完成したのは21日になってからでした。

ですが、ドイツ軍の抵抗もここまでです。完成した包囲が再び破られることはなく、取り残された将兵は脱出の術を失いました。

このファレーズ包囲網を巡る戦いで戦死したドイツ将兵が約1万人、捕虜になったのが約5万人です。一方脱出に成功した人数ははっきりと分からないものの、2,3万~5万人は包囲から逃れたとか。
それらの人的被害は言うまでもありませんが、同時に数百輌の戦車をはじめ数々の兵器を失い、何とか包囲を逃れた将兵も装備をほとんど失っており、ドイツ軍は数個の師団が解体されるほどの大損害を受けました。


そして、連合軍は8月25日にパリを解放。
実は戦略的に意味が薄いこと、首都だけに激しい反撃が予想されることから後回しにされる予定でしたが、レジスタンスの蜂起やド・ゴールの偽情報すら交えた猛プッシュによりアメリカ軍も進軍を決定しました。
フランス人による歓迎で進軍が遅れたり、パリ破壊命令が出され、パリ指揮官がそれに従わなかったり(この時ヒトラー総統は苛立って「パリは燃えているか」と何度も確認したと言われています。)しましたが、特にこれといった戦闘はありませんでした。

その後連合軍は30日にセーヌ川を渡ることに成功し、ドイツ軍はセーヌ川以西から一掃されました。
こうして、オーバーロード作戦は成功に終わったのです。


  ドイツ軍が敗北した理由は色々あると思いますが、物量差と東部戦線での苦戦は言うまでもないとして、一番に挙げられるのは航空戦力の圧倒的劣勢ですね。実のところ、陸軍を支援するための事前砲撃・絨毯爆撃は成功率が低く、自軍を誤って攻撃したり、オマハ・ビーチのように損害を免れたドイツ軍によって予想外の反撃を食らったりする事もしばしばあったようです。
しかしドイツ軍の輸送を遅滞させたのは間違いありませんし、ドイツ軍の反抗作戦が爆撃で阻止されることもありました。ちなみに約3か月の作戦中、出撃した回数は48万回だとか。
また、しょっちゅうヒトラー総統が軍部に口出ししたのもドイツ軍の判断を遅らせる原因になったと言われています。

ただ、どちらかというと連合軍が苦戦した印象の方が強いんじゃないでしょうか?
どうにかすればドイツ側が勝てはしなくとも、終戦まで延々と膠着状態が続いたのではないかと思えるほどです。
あちこちのサイトを見ると、シェルブールを早期に占領できなかったことや、連合軍内の反目などが原因の1つと言われていましたが、「これ!」という決定的なものは無く、結局のところ「ドイツ軍が予想以上に強かった」と言う他なさそうです。

まあ粘ったところで東部戦線の劣勢は覆らないわけで。もしかしたらドイツ以西が軒並み共産圏に入っていたかもしれませんが、いずれにせよ敗北は免れないかと思います。



 さて、いよいよ「将軍の栄光」ではどうだったか、解説したい・・・んですが、ぶっちゃけこのステージはかなり再現度が低いです。
全体的にマップの縮尺が広いため、ノルマンディーどころか北フランス全体に上陸するようになっています。ブルターニュに自軍、シェルブールに米・英・仏軍、ノルマンディーからカレーにかけて英・カナダ・ギリシャ軍(何故かポーランドではありません)が設定されています。
一応ノルマンディーは手薄に、カレーは堅固になっています(が、そのカレーに友軍が攻撃を仕掛けるという矛盾)。後はカーンやシェルブール、サン・ロー周辺などは防衛施設なども建設され、比較的守りが固くなっています。

作戦名から「ノルマンディー上陸作戦」ですから、ノルマンディーに上陸していないのは不自然と言えば不自然ですね。
あとは航空優勢などはシステム上再現不可能ですが、もしかするとアイゼンハワー将軍の空母がその代わりになっているのかもしれません。物量優勢は再現すると難易度が著しく落ちるのでこちらも致し方ないかと。

 (数少ない)再現ポイントは自軍の進軍ルートですね。
普通にプレイしていれば自軍はフランス北西端に上陸してから南下し、ナントを制圧した後にル・マン(と思われる目標町)を占領し、そのままパリを解放するという流れになっています。
これは恐らくパットン将軍の進軍ルートを模しているのでしょう。ファレーズ包囲戦が再現されていないため、そのままパリへと進むようになっているのだと思われます。
パリ防衛隊がロンメル将軍はじめステージ中最強なのは気になりますが、一番強い敵が一番奥にある方が燃えますからね。仕方ないですね。
それからドイツ海軍がほとんど障害にならない辺りも史実通りです。

 ただ、この作戦の意義や規模などを考えると、この再現度はやや残念かな、と思ってしまいます。
上陸地点がバラバラなのは縮尺が大きすぎてノルマンディーがめちゃくちゃ狭い範囲になってしまっているからでしょう。多分パリをマップに入れるためだと思いますが、それならいっそのこと上陸とパリ解放でステージを分けても良いくらいの作戦だと思うんですが。まあ他のステージの縮尺と大きく差が出てしまう可能性があるので、それはそれで問題かも知れません。


将軍の栄光で書けることがほとんどないという事実にビックリしながらも、この辺りで終わらせて頂きます。
もし足りない点があれば言っていただけば補筆したいと思いますのでよろしくお願いします。

それでは。