2017年11月13日月曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第五回・バルカン半島の戦い)

どうも。
例によって南極戦線の攻略が滞っているので、いつものごとくこのコーナーで間をつなごうと思います。
今回の元ネタ紹介は「ギリシャ・イタリア戦争」「マリータ作戦」「メルクール作戦」(西部戦線枢軸側『バルカン半島の戦い』、北アフリカ戦線枢軸側『メルクール作戦』)です。
今回だけは分割すると非常に分かりにくいため、不本意ながら北アフリカ戦線のステージ解説も行います。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 まずあらましから。
前回はナチスドイツのフランス侵攻を取り上げましたが、同じくファシズム国家イタリアも同様に侵略を進めたいと考えていました。

 前提として、1939年にバルカン半島に位置するアルバニアを侵略・併合(厳密には保護領化)していました。
ですが、その隣に位置するギリシャはイギリス寄り。
ここから連合国側がバルカン半島で影響力を強める事を懸念し、またドイツ軍の電撃戦のような成功を収めたいと考えており、
さらにヒトラーが自国に何の相談もなく侵攻を進めていく事を面白く思わなかったムッソリーニは、ギリシャへの侵攻を計画します。
オレンジは枢軸寄り。ユーゴは枢軸寄りながら、やや中立。

 しかし、既にイタリアは北アフリカで連合国と戦争中であり、さらに別の地で戦端を開く事は困難です。
それに加えて気候や地形の問題、国力の低さなどから周囲は反対しますが、ムッソリーニはこれを押し切って侵略作戦を開始します。さすが独裁政権。

ともあれ1940年10月末、約16万名のイタリア軍とアルバニア人部隊がギリシャへ進撃を開始します。
ちなみにこの際(アフリカ戦線に回してくれという軍部の声を無視して)1000輌の戦車を派遣しています。これのせいでアフリカ戦線の劣勢が決定的になったとか。
対するギリシャ側の兵力はよく分かりませんが、まあ全体的に劣っていた事は間違いないと思われます。

 ところが、というか案の定というか、この侵攻は失敗に終わります。
まずイタリア軍は訓練や装備が不十分な兵が多く、逆にギリシャ軍は想定以上に強力でした。
加えて山の多いギリシャは伏兵や奇襲など、地の利を活かしたゲリラ作戦を実施。
ただでさえ険しい山を越えなければならないイタリア軍の進軍速度をさらに遅らせます。

頼りの戦車も険しい山道では大して活躍もできなかった・・・らしいです。
戦車に(も)詳しくないのであまり説明できませんが、デコボコ山道より見晴らしの良い平野の方が戦車にとって戦いやすいというのは想像に難くありません。
悪路ゆえに移動速度が落ち、死角も増え、さらにエンストなど故障の心配もあるでしょう。キャタピラがついているとはいえ自動車の仲間ですからね。

加えて夜はマイナスまで落ち込むギリシャの秋の寒さがイタリア軍に襲い掛かり、士気を大きく失わせました。
無論動員されたアルバニア人はさらに士気が低く、寝返る者まで出る始末。
ついにギリシャを落とすどころかアルバニアの一部をギリシャ側に占領されてしまうまでに至ります。



この状況を受け、ムッソリーニはヴィスコンティ・プラスカ司令官の罷免と増員を決定。これが11月、開戦後2週間の事です。

それでも戦況は変わりません。参謀総長の交代でギリシャの進撃は食い止められますが、反撃は成功しないまま翌年4月まで交戦は続きます。

 結局、このギリシャ・イタリア戦争はイタリア側の敗北と言ってよいでしょう。
もちろんギリシャ軍は他を手薄にし、文字通り全力を持って迎え撃ったわけですが、それでも寡兵は寡兵。
ギリシャの兵力を侮り泥沼に陥った・・・耳が痛い話です。(→「将軍の栄光」攻略番外編参照)


 ですが勝利を収めたギリシャも心中穏やかではありません。
イタリア軍と交戦しているという事は、当然ドイツ軍とも戦闘に入る可能性も高いという事です。
国力的にこれ以上の戦線拡大は不可能ですし、フランスが敵わなかったドイツ軍と戦って勝てるはずもありません。
基本的に中立を保とうとはしていますが、それも長くは続かないでしょう。

 さらにイギリスについての状況を。
イギリスは既に北アフリカでドイツ・イタリアと戦闘中ですが、アルバニアをイタリアが占領した直後、1939年の宣言によってギリシャを支援する義務がありました。
実際にイギリスはイタリア侵攻直後、クレタ島(ギリシャ本土の南)に援軍を送っており、そもそもギリシャ軍の軍備は北アフリカ戦線で鹵獲された枢軸側(イタリア軍)の武器弾薬によって賄われていました。何という皮肉。

 そしてナチスドイツ。
正直イタリアの独断と枢軸国を貶める劣勢に怒りと迷惑を覚えつつ放置していたドイツでしたが、イギリスが前述のクレタ島に援軍を送った時点で介入を決意します。

というのも、ルーマニアの大油田はドイツの生命線です。え?ヨーロッパに大油田?と思うかも知れませんが、ルーマニアも中東と同じくアルプス・ヒマラヤ造山帯に近く、当時としては産油国でした。
このままイギリスがギリシャに駐屯し続ければ、この油田が空襲の危険にさらされます。
そうなればソ連侵攻どころではありませんね。


 そんなわけで、「マリータ作戦」と名付け、ギリシャへの侵攻計画が検討されます。
当初このギリシャ侵攻はアドリア海のみならず、ジブラルタル海峡まで含めた地中海全域を支配する作戦の一部だったのですが、
スペインの協力拒否+ユーゴスラビアのクーデター
という状況の悪化により、開戦までにはギリシャ・ユーゴスラビア攻撃へと主目的が変わってしまいます。

 さて、ギリシャ・イタリア戦争の最中、ギリシャはドイツ軍が絡んでくる前にアルバニア方面の戦線を終結させたいと考えます。そこでイギリス軍にさらなる援護を求めましたが、イギリス軍も前述の通り北アフリカ戦線でし烈な戦いを繰り広げており、そんな余裕はありませんでした。
一応若干の援軍を送ると申し出はしましたが、ドイツ軍を刺激しないようギリシャ側から断られてしまいます。

この辺りに、今のうちに優位に立ちたい、ドイツと戦いたくないという二つの思惑を持つギリシャの難しい立場が表れている気がします。

ですが、「同じくドイツ相手に奮闘する小国ギリシャを見捨てて良いのか」という政治的(感傷的)思想のもと、
イギリスはギリシャへの援護に積極的になっていきます。折しもイギリスは北アフリカ戦線でイタリア軍に大勝、余裕ができた兵力を一部ギリシャに回す事ができました。

加えて中立を堅持しようとしていたメタクサス首相が死亡。
そしてドイツ軍との衝突が避けられそうにない状況から、ギリシャはイギリス軍の援軍を受け入れる事を承認しました。
さらにドイツを完全に怒らせてしまったユーゴスラビアも加わり、この三国が連携してドイツ軍に対処する事になります。とは言ってもすぐにドイツ軍の侵攻が始まり、実際にはまともな連携を取ることはできませんでしたが。

 続いて、ギリシャの作戦を紹介します。
ギリシャはブルガリアと仲が悪く、国境にメタクサス・ラインと呼ばれる山地を活かした防衛線を築いていました。
そこでギリシャ軍はその防衛線を用いる事を決定します。これはドイツ軍の大部隊が通れる道はカバーできるものでした。


ハンガリー・ブルガリアは枢軸に参加してます。

ただ、装備も量も劣るギリシャ軍がこの広範囲の防衛線を守るのは難しいと考えたイギリス軍の司令官ウィルソンは部隊を動かさず、よりコンパクトな防衛線をその南西に配置します。
ここならアルバニアの部隊とも連携が取れますが、これだとギリシャの北東部は放棄も同然。さらに結局ユーゴスラビア方面は依然がら空きと言って良い状態です。

ただでさえ少数なのに防衛線を二つに分けんでも、という疑問がわきますが、ギリシャ軍にとってギリシャ北東部を見捨てるというのは受け入れがたかったのではないでしょうか。



 さて、マリータ作戦を目前に控え、ドイツ軍はイタリア軍にある要請を出します。
それは英軍の陣地であるエジプトとギリシャ間の補給路を断絶する事でした。
バルカンの制空権はほぼドイツ軍が握っており、ギリシャへの輸送はイギリス海軍が行っていましたから、これが成功すれば枢軸の優勢は揺らぎないものとなるでしょう。

しかしイタリア海軍は「タラント空襲」と呼ばれる軍港への爆撃により、戦艦3隻を大破される大打撃を受けています。
海軍参謀長リカルディはドイツ軍の要請を拒否しますが、次第に行われるギリシャへの輸送やそれに伴う上陸作戦、そしてドイツ軍の圧力により作戦を承諾。これが「マタパン岬沖海戦」です。
ところがイギリスは雷撃機1機のみの損害に対し、イタリア海軍は重巡洋艦3、駆逐艦2隻沈没、戦艦1隻大破という大損害。
これ以降イタリア海軍はもっぱら本国付近で活動するようになり、少なくともこの段階では地中海の制海権を完全にイギリス海軍が掌握します。



 そんな中、4月6日にドイツ軍はユーゴスラビアへ進軍します。この作戦名は「懲罰作戦」。怒りのほどが伺えますね。
猛烈な爆撃によって各拠点は断絶。さらにフランス侵攻同様、空軍支援と陸軍のコンビネーションによって悪路をものともしない快進撃。

ただでさえ兵器で大きく劣っている上にろくな準備もできず、セルビア人とクロアチア人の対立を抱えたユーゴは、首都ベオグラードを10日ほどで陥落され降伏します。


ユーゴスラビアはその後、ドイツ・イタリア・ハンガリーなどによる傀儡政権・傀儡国家の樹立や併合を余儀なくされ、バラバラになってしまいます。


ただしこの際、秘密警察や民族浄化という厳しい占領政策に反発する形で、かの有名なチトー率いるユーゴスラビア人民解放軍が誕生しました。パルチザンと言った方が有名ですね(パルチザンは彼らだけではありませんが)。
彼らは連合軍の支援を受けながら枢軸国への抵抗を続け、後にユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立を果たします。

 さらに、ユーゴ侵攻と同時にドイツ軍はギリシャへの攻撃を開始します。
メタクサス・ラインに砲撃や爆撃といった苛烈な攻撃が加えられ、ある程度持ちこたえるなど健闘はしつつも、険しい山道を通って突然背後に現れたドイツ軍によって崩壊した左翼をはじめ、各所で瓦解。
さらにユーゴ南部を通過して進撃したドイツ軍によって重要なテッサロニキ港も戦闘無く陥落。

ギリシャ軍は英軍司令官ウィルソンの防衛線まで後退しますが、こちらにもユーゴの悪路を経由し側面からドイツ軍が攻撃を加えており、またテッサロニキからのドイツ軍も食い止めなければならない窮状です。
結局、いくつかの反撃も加えながらも撤退を繰り返し、連合軍はテルモピュレーまで撤退。英軍は完全な撤退を決断します。

 その後テルモピュレーを放棄、アテネに最終防衛陣地を、それもドイツ軍に突破・・・と、この戦いは撤退しようとするイギリス軍、そしてそれを食い止めようとするドイツ軍と
いう格好の繰り返しですね。

そして数々の足止めに支えられた結果、4月30日に連合軍約6万人の退避が完了。ギリシャ国王を含めた一部の兵はカイロに、大半はクレタ島へ脱出しました。

 これ以降ギリシャは厳しい占領政策の下、かなり激しいレジスタンス活動を行っていくこととなります。

またこの戦いでのギリシャ軍の精強さや勇敢さは広く知られ、ヒトラーも孤立し降伏したギリシャ軍捕虜を即時釈放せよという命令を出しているほどです。

 ちなみにこの戦いによってソ連侵攻作戦が延期され、冬将軍が猛威を振るう冬に作戦が行われた結果失敗に終わった、という話はよく聞かれます。
しかし実際には延期は春の氾濫のせいであるとか、
イギリス内閣官房でもソ連戦への影響はなくヒトラーがイタリアに責任を擦り付けただけだ、という指摘もあるという事は記載させていただきます。




 さて、ギリシャ本土では大勝したドイツ軍ですが、クレタ島では依然として多くの連合軍が残っています。先ほども言いましたが、ルーマニアの油田群が危険にさらされている以上ナチスドイツは安心できません。


ドイツはこのクレタ島を制圧するため、史上類を見ない大規模な空挺作戦「メルクール作戦」を計画します。

つまり、上陸部隊を伴わず、エアポーンのみでクレタ島の空港と首都を占領するという通常ではあり得ない作戦です。(「将軍の栄光」ではそうでもないですけど。)
これには地中海の制海権がイタリアではなくイギリスに握られているという事情があったようです。

 で
すがこの作戦は思うように進みません。まず空輸の為に大量の燃料等を輸送する必要がありますが、何度も言うようにバルカン半島は悪路です。その結果、作戦は予定から1ヶ月も遅れた5月半ばにずれ込んでしまいました。



作戦開始後も、事前の激しい爆撃にも関わらず空挺部隊は激しい抵抗に遭い、予想外の損害を被ります。

さらにイタリア海軍と共に行った海路による侵攻もイギリス軍に撃退され、強行着陸によって何とか空港の一つを奪取することができました。

しかし、これを皮切りに形勢が逆転します。

空軍は陸上支援から海軍への攻撃に移り、イギリス海軍は次々に撃破。陸海ともにドイツ軍が支配権を握りました。

最終的にイギリス軍司令部は撤退を決定し、空爆の中多大な損害を受けながらも撤退を完了。クレタ島はドイツ軍に占領され、とうとう東欧から連合側勢力は一掃されてしまいました。


 結果だけ見ればドイツ軍の勝利ですが、あまりにも空挺部隊の損害が大きかったことから、ヒトラーはこれ以降このような大規模な空挺作戦は行いませんでした。

反対に、連合軍ではこれを教訓に空挺部隊の育成に力を入れ、かの有名なノルマンディー上陸作戦等で活躍します。
またイギリス海軍はこの戦いにより戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦6隻などを失う損害を受けており、先のマタパン岬沖海戦で得た地中海での優位は一気に揺らぐ事となります。



 意外と長くなってしまいましたが、もう少しだけお付き合いください。
 『バルカン半島の戦い』ステージではイタリア軍として行動しており、ドイツが絡んでいないので「ギリシャ・イタリア戦争」かな?と思いきや。
アルバニア全域がユーゴスラビアに支配されています
そして時期はイタリアがギリシャへ侵攻した1940年10月ではなく、マリータ作戦が行われた1941年5月。
さらにメタクサス・ラインのあった辺りはブルガリアが占領しており、ギリシャ軍の防衛線はウィルソン卿の防衛線に移動しています。(まあこれは難易度調整等々で仕方ないと思いますが。)

随分と変わってしまっていますが、要するにドイツ軍の動きをブルガリアとルーマニアが担当するといった感じでしょうか(だとするとかなり力不足ですけど)。しかもかなりユーゴが強い。ホントに準備できてなかったのかよ。

無理矢理説明するとするならば、イタリアはギリシャ・イタリア戦争で大敗。アルバニア全域を失い、ドイツ軍はアシカ作戦と対ソ連の準備にかかり切り。仕方なくイタリア軍とブルガリア・ルーマニア軍で作戦を実行する・・・みたいな感じですかね。

ですが道の悪さとイタリア海軍の弱さはそのまんま。史実通りイギリスにコテンパンにされるあたりはたまりませんね。
でもけっこうな確率でイタリア半島に上陸を許すのはさすがにどうかと。あとアテネの堅さはどうにかならなかったのか・・・いや文句じゃないですよ。



 忘れてたので追記。
『メルクール作戦』ではそもそも空港を一つも所持していない為、ふつーの上陸侵攻作戦となっています。
またクレタ島にある空港も1つだけ。
しかも史実では圧倒的優勢なドイツ軍がなぜか劣勢。それも難易度調整でやむを得ない事でしょうけど。
イタリア海軍がある程度は参戦してくれている点(だけ)は史実通りですね。

 今回は以上となります。
この戦いは結果としてはさほど大勢に影響のあるものではなかったので資料が少なく、
誤った部分、不明瞭な部分が多々あると思います。ご容赦ください。
それでは。