2018年9月1日土曜日

『将軍の栄光』作戦元ネタ解説(第七回・ノルマンディー上陸作戦)

  どうも。
今回はいよいよ西部戦線のハイライト、「ノルマンディー上陸作戦」(連合側『ノルマンディー上陸作戦』)の解説です。
史上最も有名な作戦の1つであり、数々の映画の舞台にもなっていますね。
中でもスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は観たことのある方も多いと思われます。
今さら解説することも無いような気もしますが、とりあえず行ってみましょう。
 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


まずは背景から。

 前回のハスキー作戦の際にも説明しましたが、フランス敗北以来西ヨーロッパは完全に枢軸の勢力圏となっており、ドイツ軍によるソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」が行われる1941年6月には、膠着状態の北アフリカを除けば他に戦線は存在していませんでした。
必然的に枢軸軍の主力を引き受ける格好となったソ連は敗北を重ね、ヨーロッパに攻勢を加えて枢軸の戦力を分散するよう連合国に求めていました。

そういった背景から立案されたいくつかの反撃計画のうち、まず実行されたのが北アフリカでの「トーチ作戦」です。これで北アフリカ戦線は連合の勝利に終わり、「ハスキー作戦」を初めとするイタリア半島への侵攻計画に続いていきます。

そしてもう1つ実行されたのが今回の「ノルマンディー上陸作戦」が行われた「オーバーロード作戦」です。
ドイツが支配する北ヨーロッパに上陸し、そのまま本国ドイツへ侵攻しようという最も直接的な計画でした。

あんまりにも絵が下手だったので描き直し。


 もちろん、上陸地点にはノルマンディー以外にもいくつか候補地がありました。
イギリスから航空支援が可能な距離という制限の中で、最有力だったのがパ・ド・カレー(カレー地方)。地図を見れば分かる通り、最もイギリスに近いというメリットがあったからです。
ですが、それだけにドイツ側の警戒も強く、守りが固いといった理由からノルマンディーが選ばれたという訳ですね。まあ次項で説明するように、ドイツのその警戒心が裏目に出てしまうわけですが。


 さて、『将軍の栄光』内で「準備に1年以上費やしてきた」とアイゼンハウアー将軍が言っていましたが、確かに作戦実行の前年(1943年5月)には作戦が実行に向けて具体的に動き始めていました。
「史上最大の上陸作戦」とも呼ばれるこの作戦。その準備も半端ではありません。
大量の人・物資がイギリスへと集められ、水陸両用戦車などの新兵器も用意が進められました。

特筆すべきは欺瞞作戦「フォーティチュード作戦」で、目標があたかもノルウェーやカレーであるかのように集中的な爆撃を行ったり、国内ラジオを流したり、頻繁に無線で通信したり、果てはパットン将軍(精神を病んだ兵士を殴って謹慎中でした)を指揮官とする架空のカレー侵攻軍団を編成し、張りぼての戦車や施設を作ったりと、徹底してノルマンディーから目を逸らせようとしていました。
さらに、イギリスに送り込まれたドイツのスパイは全員諜報部に把握された上に多くが寝返って偽情報を流したため、ドイツ軍首脳部はカレーが目標であるとすっかり信じこんでしまいました。さすがジェームズボンドの国。

それからフランス各地に激しい空襲が行われ、輸送路が寸断されたということも付け加えておきます。(制空権に関しては終始連合国が握っており、上陸した後も何名ものドイツ将校が空爆で命を落としています。)
また、フランス国内のレジスタンスも同様に活動しており、鉄道を止めたり、電線などを破壊して通信網を寸断したそうです。これらが後にドイツの初動を遅らせる一因となるわけですね。


 さて、対するドイツの状況。
連合国の動きから反攻作戦は近いと踏んだドイツは、北部フランスを管轄するB軍集団の司令官にご存知ロンメル将軍を任命します。
また『大西洋の壁』と名付けられた、ノルウェーからスペイン国境までを守る長大な要塞線が建設されています。
が、あまり防衛の態勢が整っているとは言えませんでした。

まず、上で述べたようにドイツ軍の主力は東部戦線に集中していました。逆に西ヨーロッパで守りについていたのは士気の低い占領国の徴集兵や、東部戦線から戻って疲労した兵士たちです。
また、「大西洋の壁」は実のところその多くが未完成であり、最も警戒されていたカレー地方でも計画の80%、ノルマンディーは20%程度しか完成していなかったそうです。
というのも、その建設に着手したのが、ソ連侵攻作戦が怪しくなってきた1942年からだったため、時間も資材も人員も足りなかったのでしょう。

ただロンメル将軍が着任してからは、兵員を強化したり、空挺対策に沼地を広げたり、自ら考案した障害物などを設置したりするなど、急ピッチで強化されていったそうですが。
そうそう、将軍の栄光に「大西洋の壁」というステージもありましたね。
あちらはナチスドイツが逆にアメリカ上陸作戦を行うという設定でしたが、アメリカ側の防衛線という意味のタイトルだったんでしょうね。
まあ流石に計画すらされていないようでしたので、元ネタ解説はありません

また、ドイツ首脳の防衛構想も一致していません。
ロンメル将軍は、連合軍が上陸した際に全力で撃退するべきだと考えていました。上陸直後は遮蔽物も無ければ戦車や重火器を十分に準備している暇も無い、おまけに防衛部隊ががっちり構えているところへ飛び込む訳ですから、最も脆弱と言って良い時間帯なのです。
そこに自慢の装甲師団をぶつけ、一気に撃退してしまおう、という作戦ですね。

しかし、西方最高司令官ルントシュテット将軍をはじめ、ドイツ陸軍幹部の多くはそれに反対しました。装甲師団の強みは機動力であり、前線に張り付いて防衛を行っていてはその機動力を活かせません。また、海岸線近くに控えている装甲師団が艦砲射撃で被害を受けるという恐れも十分ありました。
それよりも、装甲師団は内陸で温存しておき、連合軍をあえて内陸部へと引き込むべきだと主張したのです。上手くいけば連合軍の後背を叩き、退路を断つことすら可能でした。
素人目にはどちらも一理あるように思えますが、結果的に言えばロンメル将軍の方が正しかったようです。詳しくは次回に説明しますが、連合軍の爆撃機によって装甲師団が迅速な動きをとることはできなかったのです。

双方譲らず、対立を収めるためにヒトラー総統はロンメル将軍に3個師団の指揮権を与え、残り4師団は自分の承認無しに動かせないようにしました。ノルマンディーが標的になりうると考えていたロンメル将軍は、その3個師団のうち2個師団をカレーに、そして1個師団だけをノルマンディーに割り当てました。
この装甲師団は上陸当日、連合軍の侵攻の出鼻を挫く活躍をしています(そしてその日のうちに半壊しています)。


 さて、そんな双方の状況のもと、1944年6月6日午前0時ごろから連合軍の作戦が開始します。
当初は6月5日が計画実行日、『D-day』だったのですが、悪天候で日付が変わってしまいました。

ドイツの西方最高司令官は前述の通りルントシュテット将軍、そして司令官はロンメル将軍。
連合側の最高司令官はアメリカ軍のアイゼンハウアー将軍、司令官はイギリス軍のモントゴメリー将軍です。
アイゼンハウアー将軍は後に大統領にもなることで有名ですが、第二次世界大戦が始まった当時はまだ中佐でした。それがこの時には陸軍大将で作戦最高司令官。凄い出世ですね。
あ、僕は元帥でも少佐でもまとめて「将軍」と呼んでしまう悪癖があります。見逃してください。

その他、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英連邦のほか、フランス、ポーランド、チェコスロバキア、ギリシャ、ベネルクス三国、ノルウェーなどなど、これまでこれまでドイツが滅ぼしてきた国の亡命政府軍が参加しています。まるでオールスター。
「将軍の栄光」で登場したのは英米仏を除けばカナダとニュージーランド、ギリシャだけですが、英米仏以外ではカナダ、ポーランドくらいしか目立たないため致し方ないでしょう。なぜギリシャが入ってポーランドが入っていないのかは知りません。

一方のドイツ軍ですが、諜報部は連合軍がフランス国内のレジスタンスに向けて流した、上陸を知らせる暗号を解読していました。
もちろん諜報部は各方面に警報を出していたのですが、連絡の不備や「まさかラジオで暗号を流さないだろう」という先入観などから、どうにもあまり真剣に受け取られなかったらしく、警戒態勢をとったのは何とカレー地方の軍のみでした。

さらに、その数日前からしばらく悪天候続きの予報であったためドイツ軍は完全に油断しており、ロンメル将軍に至っては奥さんの誕生日を祝うため休暇を取っているほどでした。
ここ、割とほっこりエピソードですよね。こういうエピソードが残っているのも現代でロンメル将軍が(ナチスドイツの将校の中では)好まれる一因かもしれません。



ではいよいよ作戦の詳細に移りましょう、と言いたいところですが、案外長くなってしまいましたので今回はこの辺で。「将軍の栄光」がらみの話はほとんどありませんでしたが、まあ次回に持ち越しということで勘弁してください。

次回は近いうちに更新し・・・たいと思います。
それでは。
連合軍の上陸地点。詳細は後編で。