2023年7月23日日曜日

フランス革命の流れ(その1・ヴェルサイユ行進まで)

(※以前の記事があまりにも冗長だったため色々修正・省略しました。)

 どうも。

 皆さん、歴史の選択は日本史と世界史どちらでしたか?僕は世界史だったのですが、恥ずかしながらフランス革命の内容はほぼ理解できないままテストをやり過ごしていました。
が、最近少し再勉強してみたので、忘れる前に備忘的に並べ立てていきたいと思います。

 当然ですが内容の正確性は保証できないので、真面目に勉強したい方は教科書などと見比べながらにして下さい。そんなことするくらいなら教科書だけ読んだ方が

 ※基本的にはWikipediaの内容が大部分です。ただコピペではあまりに芸が無いので出来る限り平易かつ自分の言葉で解説させて頂こうかと思います。


 まずは予備知識から。

 時代は太陽王ルイ14世の二代後、ルイ16世の治世です。

 当時のフランスにはアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれる身分制度があり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、そしてそれ以外の第三身分と分かれていました。
ただし、それぞれの身分ごとに貧富や立場は大きく異なっています。
例えば第一身分なら中央の大司教⇔村の教会の司祭、
第二身分なら王にコネのある宮廷貴族⇔それ以外(特に平民上がりの貴族)、
第三身分なら王室の御用商人⇔一般市民、地方では地主⇔小作農、
でスタンスが違うのはイメージできるかと思います。

 特に今回活躍する第三身分の人々は、特権を持たない新興のお金持ち(ブルジョワジー)であって、イメージしやすい貧乏な民衆とは違うということに注意してください。

 それはさておき、第一・第二身分には免税や課税の特権が認められており、当然第三身分が国費を負担させられていました。
更に当時のフランス政府の財政は最悪で、アメリカ独立戦争などの戦費に加え、凶作、そして宮廷貴族の奢侈な生活が重なり、国庫が底をつきそうな状態。

 国王ルイ16世は財政建て直しのため、評判の良い在野の経済家を大臣に任命しますが、
もはや第三身分だけでは賄えないからと特権身分への課税を試みたために、王に近い宮廷貴族たちの猛反対に遭い、罷免される…という流れが何度か続きます。
とはいえ、ルイ16世も別に課税に積極的だった訳ではないようです。


 では、いよいよ説明に入ります。

 発端となったのはある改革派大臣が課税案を貴族たちに提案した際、彼らが拒否する口実として「三部会」の開催を主張したことでした。
この三部会というのはその名の通り、各地の選挙区から選ばれた各身分の代表者で議論を行うための議会です。

 これに喜んだのが第三身分。何故なら彼らが政治に干渉できる機会はこれぐらいであり、しかも絶対王政以来170年ほども開催されていなかったからです。
彼らはこの機会を利用して、特権階級も逆らえない法律、つまり憲法の制定を成し遂げようとしたのでした。

 大臣はそれらの貴族たちと争い、王権を利用して追放したりしたのですが、
曲がりなりにも三部会を開こうと主張している彼らを追放したことで民衆が暴動を起こしたりしています。ややこしいですね。
この時の構図を描くとだいたいこんな感じ(だと思います)。

王の権力を利用する貴族と、王から権力を奪いたい貴族がいたイメージです(実際はもっと複雑ですが)。
平安風なのは気にしないで下さい。

 最終的には混乱と国庫の枯渇という現実を前に、国王も開催を認めました。(王権の譲歩。)
またこの間も大臣は何度か交代しており、最後に着任した人物は民衆の人気が高く、それを武器に三部会で課税改革を進めようと考えていました。

 ところがというか案の定というか、招集された三部会はもめにもめます。ひと月ほど会議が開かれることもないまま膠着し、やがて第三身分の代表者たちは独自に「国民議会」という議会の結成を(一方的に)宣言し、他の身分の代表者たちに合流を要求しました。

 そんなもん誰が聞くねん、と思いきや、第二身分のごく少数、そして第一身分の大半が合流を決定します。
理由はさまざまでしょうが、聖職者代表に関しては前述の通り貧乏祭司なども多く含まれていたことが大きかったようです。

 国王ルイ16世と宮廷貴族はもちろんその存在を認めず、武力で威圧しつつ議場を閉鎖しますが、彼らの決意は固く、一週間ほどで上述の他身分が合流。
国王はやむなく国民議会の成立を認め、残りの代表にも合流を呼び掛けたのでした。

 これで正式に議会となった国民議会は、この後「憲法制定国民議会(立憲議会)」と改称します。


 ただし、それで引き下がった訳ではありません。まず軍隊を動かし、議会を威圧すると同時に中心都市パリににらみを効かせます。
さらに前述の財務大臣を解任。人気の高い彼を下ろしたことで、改革勢力に動揺が広がりました。

 これに対し、「武力で潰される」と思った市民も自衛組織(※ブルジョア)を立ち上げるなどし、武力衝突と暴動が発生し始めます。

その過程で発生したのが、武装のための弾薬を求めた民衆(※非ブルジョア)によるバスティーユ牢獄襲撃事件でした。
これは専制政治の象徴とも言える牢獄で、国王の命令さえあれば誰でも・非公開で投獄できるというなかなかに怪しげな施設でした。ただし、襲撃時に収監されていたのはわずか7人だったとか。

 当初は民衆も代表者を立てて、守備隊もそれを招き入れて対談するなど冷静な交渉だったのですが、やがてそれらは暴動となってしまいます。
本来ならば成功するはずもないように思うのですが、賃金の未払いなどが祟り国王軍は救援に動けないばかりか一部が市民側に寝返り、陥落。

 これにより軍事的にも統治能力を失っていることを露呈したルイ16世は、パリ自治政府、前述の(国王軍が寝返った)自衛組織=国民衛兵、そして彼らの三色旗を正式に承認・受容するなど、専制君主制は完全に崩壊しました。

 財務大臣も復帰し、特権身分への課税などの改革がついに始動。これまでの報復を恐れた貴族たちは国外へ亡命し、今後は反革命勢力として陰に陽に活動していきます。


 また、地方ではこれらのニュースに触発された反乱や、逆に領主による弾圧といった混乱が広がりました。
ただ、これには立憲議会も困ります。彼らは別に国家騒乱を望んでいる訳ではありませんので。
しかし、市民の支持を考えれば国王軍や私兵などを利用した強硬な鎮圧はできません。

 ここで差し当たり貴族たちと第三身分代表との利害は一致し、とりあえず封建特権の一部廃止を宣言することで国を落ち着かせるとともに、かの有名な人権宣言が出されました。起草者はアメリカ独立戦争でワシントンと共に戦った「両大陸の英雄」ラ・ファイエットです。ちなみに、彼は国民衛兵の最高司令官にも任命されています。

 その内容は自由と平等、人民主権、法の下の平等、三権分立、所有権など、今の日本国憲法の基礎をなす概念が目白押しです。ここテスト出るぞー。


 さて、これで治安が戻るかと思いきや、そうも行きません。
国王ルイ16世は、特権の廃止も人権宣言も承認しませんでした。つまり未発効のままです。

 2か月後、食料品の値上がり・宮廷の散財や革命の侮辱(を伝える記事)・革命急進派の運動などによって、パリの女性たちを中心とした集団がヴェルサイユに向けて出発しました。これがヴェルサイユ行進です。
離れた場所で裕福に暮らす国王に、自分たちの生活苦を分かってもらおうとした訳ですね。また、アントワネット王妃などのいわゆる「君側の奸」を排除しようとする人もいたようです。
ここでひとつ豆知識として、宮殿と立憲議会はパリではなくヴェルサイユにありました。両者は20kmと、意外と離れています。5~7時間くらいかかったでしょう。

 宮殿の外を殺気立った集団に取り囲まれ、国王はやむなく彼らの代表と面会。特権廃止と人権宣言を承認しました。

 ところがそれだけでは終わらず、その日の未明、衛兵の目を盗んだ暴徒が宮殿敷地に侵入・近衛兵を殺害しました。戦闘音に気付いた他の民衆もまた雪崩れ込みます。
興奮状態の彼らに取り囲まれたバルコニーの上で、王と王妃は求められるままに「パリ行き」を受け入れざるを得ませんでした。

 ただし、この段階ではどちらも万歳の声で迎えられており、まだ国民の憎悪はそこまででも無かったようです。
アントワネットなどは寝室まで踏み込まれてますが、「実際に見たらそんなに悪人でもないかもなあ」くらいの印象だったのでしょうか?

 これにより、国王は味方のほとんどいないパリに連れて行かれてしまいました。
加えて立憲議会も同様にパリへと移され、市民の監視下に置かれることになります。


 とりあえず、今回はこんなところですね。
それでは。