2024年1月13日土曜日

フランス革命の流れ(その2・立法議会結成まで)

 どうも。フランス革命の備忘的記録、第二回です。


 前回のヴェルサイユ行進により、国王ルイ16世一家と国民議会はパリへと連れて来られていました。

 またこの頃から種々の改革が本格的に始まります。ひとつひとつ説明するほど重要でも簡単でもないので省略しますが、
すごーーく大雑把に言うと、
①旧慣習の廃止と理論的な立法(聖職者の公務員化・教会財産の没収、行政区分の策定など)
②国内の安定化(一部税の廃止、国有財産の売却や①の没収財産による財政問題への対処など)
といったところでしょうか。意外とマトモですね(失礼)。
またユダヤ人や有色人種、女性の人権についての議論も活発になり、これから先いくつかの法律が定められます。

 そして、同時に③経済的自由化という政策も進められていました。

良いことのように思えるかもしれませんが、労働者の団結・争議が禁止されるなど、あまり手放しで喜べるものではありません
「経済活動の自由」や「所有権の不可侵」に熱心なのは、当時すでに土地やお金を得ていた層なのです。

 他にも、革新的な政策は、やがて内乱にまで発展する「国内分断」という副作用も引き起こしてしまいます。


 それはさておき、この時期、議会内外で意見や立場によるいくつかのグループが生まれました。
それを象徴するのが、議員以外でも参加可能な政治クラブの存在です。最も有名なのが「ジャコバン・クラブ」ですね。
ちなみにジャコバン・クラブは特定の思想を掲げたものではありませんので、この時期の中心メンバーは後に言うジャコバン派とは異なります。

 議員以外の人はもちろん、議員であってもこういった団体に参加し、討論を行っていたようです。議会の一部ではないのですが、政党の原型のような存在だったみたいですね。

 では折角ですので、この頃の派閥をまとめてみましょう。


 まず大まかな主張として、君主制を維持するか廃止するか。

 前者のうち、従来通りの専制君主制を主張するのが守旧派とか王党派とか言われます。
一方で、憲法制定、旧制度の改革を目指したのが立憲君主派
革命に参加した貴族はたいていがこのグループに分類されると思います。もちろん貴族以外もいたでしょうが。

 なんとなく想像できると思いますが、この頃から反革命に転じる人も増えます。初期に革命を主導した層なのでややこしいですね。
代表的な人物はラ・ファイエット。

※なお、貴族でありながら旧来の身分制度に否定的な人々は自由主義(的)貴族とも呼ばれます。
ちなみに立憲君主制はフランス革命からおよそ100年前、1688年の名誉革命によりイギリスで確立されました。ついでに覚えておくと便利です。

 一方、廃止したいと考える人々は共和派と呼ばれます。
さらにその中でも、現在の地位をそのまま残したいと考える者と、より体制改革を望む者とで、穏健共和派、急進共和派と分かれていました。

 富裕層は身分制による制限や、貴族たちへ奪われていたお金の流れが無くなれば満足。
物価高騰に苦しむ庶民は生活が楽になるまで富の再分配をして欲しい。

というイメージです。かなり大雑把ですが。
貧しい人々は革命の恩恵をあまり(ほとんど?)受けず、貴族と妥協的な議会への失望などから、その分過激な急進共和派になったりしたようです。


 ではこの頃の世論はというと、これまで革命を主導してきた立憲君主派に近いものでした。

 ところがある時、それを一変させる大事件が勃発します。

 革命への危機感を募らせたルイ16世一家が、マリーアントワネット王妃の兄が治めるオーストリアへの亡命を企てます。
これが有名なヴァレンヌ逃亡事件ですね。
もちろん突発的に逃げた訳ではありません。国外の亡命貴族や他国の力を借りて国内を鎮圧しようとしたのです。

 しかし結果はご存知の通り失敗。これが明るみに出ると、当然世論はルイ16世の王位剥奪に傾きました。

 ジャコバン・クラブでも、立憲君主派(主流派)は共和主義者が勢いづいたクラブを脱退し、ラ・ファイエットらと合流、後にフイヤン・クラブと呼ばれる団体を結成します。
(ただし、これはあくまで政治クラブの話ですから議会の構成は変わりません。)

 議会でも、彼らは「国王は逃げたのではなく誘拐されたのだ」というあからさまな嘘で国王を擁護(というか市民を沈静化させようと)しました。


 しかし、もうひとつ大きな出来事が起こります。シャン・ド・マルスの虐殺です。

 これはヴァレンヌ事件の直後、王と立憲君主派の議会を変更するよう請願する5万ものデモ集団に向け、パリの国民衛兵が無警告で発砲、殺傷したという事件です。
デモ隊は(兵隊が現れるまでは)これまでの事件とは異なり非暴力的な行進でしたので、事件は大きく報じられました。
そして最悪な事に、衛兵隊の総司令官は以前述べた通り、立憲君主派の代表格であり、市民にも人気の高かったラ・ファイエットだったのです。

 もっとも威嚇射撃に驚いた民衆がパニックを起こしただけという可能性もあるそうですが、当時の人々にはそんなことを知る由もありません。
重要なのは、王家に加え、これまでの革命を主導してきたメンバーおよびパリ自治政府に対し、民衆が敵対し始めたということです。


 一方、ヴァレンヌ逃亡事件の報はオーストリアにも届いていました。
妹家族(フランス国王一家)の身を案じたオーストリア王は、プロイセン王国とのポーランド分割会議(この辺、プロイセンの歴史の記事に通じますね。懐かしい・・)の際、外交的圧力をかけるべく共同でピルニッツ宣言というものを出しました。

 簡単に言えば「フランス国王を自由にする為に軍事行動を起こす」という内容でしたが、実際は両国ともそんな準備は無く、脅しに過ぎなかったようです。

 しかし、他国の助力や内乱を画策していた亡命貴族はこれに乗じて「早く革命を止めないとお前たちを(他国が)攻め滅ぼすぞ!」と口撃します。
が、それで鎮静化する訳もなく。
むしろ危機感と諸外国への敵対心を煽られ、国内世論は過激さを増していきました。


 それを抑えるためかどうかはともあれ、この時期、ずっと準備されてきた憲法がようやく出来上がります。これが1791年憲法です。 

 内容としては前回記載した人権宣言の具体化ですが、君主制の存続、国王への行政権の付与が定められています。
そして何より、財産によって選挙権を区別する制限選挙が規定されるなど、貧困層を政治から切り離す内容でした。前述のフイヤン・クラブ派の意図が反映されているのが特徴ですね。


 それでも憲法は憲法ですし、内心はどうあれ国王も宣誓したので、国民議会はその役目を終えたことになります。「憲法制定」国民議会ですからね。

 そんなわけで議会は解散。代わりに憲法に規定された立法議会、正式名称「立法国民議会」が選挙によって結成されました。
規定により前議員は立候補できなかった為、ここで議会の構成員は全員変わります。

 主流派はまだ根強い地盤を持っている(もしくは選挙規定の関係で有利な)フイヤン派のメンバーが大半。
ただし、王政に不満を持っているジャコバン・クラブ(現在の主流は穏健共和派)も結構な数で在席しています。
ちなみにこのとき、議場において立憲君主派が右、急進共和派が左端に座ったことから、既存の体制に賛同する人を右翼、否定する人を左翼と呼ぶようになりました。どちらも死語ですけど。

 この後、落ち着いた時期をほんの数ヶ月だけ挟み、革命は更なる急展開を迎えることになるのでした。


 とりあえず、今回はここまでです。
それでは。

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